〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/03/16 (月) 

旅 順 総 攻 撃 (九)

この北海道出身者をもって構成されている第七師団の師団長は、薩摩人大迫尚敏おおさこなおとし であった。当時中将で、のち大将。
ついでなからこの大迫の弟尚道なおみち は兄より十歳下で、志願学校の第二期生で、秋山好古より一期上であった。いま少将で、奥軍の幕僚になっている。
兄の尚敏はべつに正規の教育は受けておらず、薩摩藩士としての武士教育を受けたに過ぎなき。この点、旧藩武士上がりの軍司令官級とおなじであった。
明治帝には、人物の好みがあって、西郷隆盛や山岡鉄舟、乃木 希典という木強ぼっきょう 武士肌の人物が好きで、山県有朋のような策謀家はきらいだったらしい。大迫尚敏は西郷もしくは山岡のにおいを持っている人物で、彼が大佐で近衛歩兵第一連隊長をつとめていたころ、帝に知られ、ひどく愛せられた。
といっても、日本の天皇制はロシアの皇帝制とは違い、天皇自身に独裁権はない。
政治と軍事はすべて内閣と参謀本部 (海軍は軍令部) が判断し、執行するという 「輔弼ほひつ 」 制度で、天皇はただ存在しているというところに意味があった。だから大迫尚敏を明治帝が愛した、といってもニコライ二世と寵臣の関係とは質的には違っており、いわば人間として、
「あの男はおもしろい男だ」
と、帝は面白がっていたという意味である。もっとも帝に独裁権がないといってもきわめてまれに、内閣は帝の判断を乞うことがある。このたぐいのことは、
── 天皇に責任を負わせる結果になり、内閣としては輔弼の責任をまつと うする道ではない。
と言うことで、きわめて好ましからざることとされていた。たとえば旅順の乃木が、
── 第八師団を送ってくれ。
と言って来たとき、大本営は乃木軍司令部の無能さに恐れをなし、これを旅順に送るよりも平野決戦用として送ろうとした。が、乃木軍の請願をむげに退けるわけにもいかず、結局 「聖断」 を乞おうとした。参謀総長山県有朋の策であった。天皇の沙汰である。ということで乃木軍司令部をなだめようとし、山県が参内さんだい して、そのような沙汰をもらって来た。天皇の 「政治」 または 「軍事」 というものは、そういうものであった。
だから大迫尚敏は明治帝に愛されたというのも、そこには政治性はない。
明治帝は、大坪流の馬術の達人であった。大迫尚敏はあいまいな馬術しか知らなかったから、帝は、
「大迫、教えてやる」
と言って、彼の近衛連隊長時代、帝からその秘術をことごとく教わった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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