余談ながら児玉源太郎の左右の謀将といわれたのは、少将井口省吾と大佐松川敏胤であった。 井口省吾は、静岡県出身で、士官学校の第二期生であることはすげに触れた。第二期生とは明治十二年の少尉任官で、同期に参謀本部次長の長岡外史と乃木軍参謀長の伊地知幸介がいた。 井口は、作戦家としてはやや消極的だったが、一種の批評家で、沙河戦終了段階で各軍の参謀をほめたり、こきおろしたりした。そのことを、長岡に手紙を書いた。 内容は、ひどくきわどい。
彼は黒木軍の名参謀長として実績のある少将藤井茂太を、 「あの男は毒物だ」 として、手紙の中でこきおろした。自分の嫌いな配下の参謀をたくみに策謀しては追い出す定評が藤井にはあり、同時に部下の功をも独占しようとするところがあるらしい。要するに参謀長としては得難い才物であるにしても、才物といわれる人物が一般に持っている徳の薄さというものが藤井には濃厚にあった。井口省吾に言わせれば、この対露戦争という、まるで綱渡りのように危険な戦いを遂行して行く上で、この種の人物が上に立っているというのは一軍の統率上どうかと思われるというのである。井口の藤井評は、辛辣
をきわまている。 「此後、現在の儘まま
に差に置く時は、私心をもって如何いか
なる事を仕出かすかも計り難く、危険至極の毒物につき」 と、言う。井口省吾の目から見ればなるほど藤井のような目から鼻に抜けるような才子は毒物であろう。此評者の井口は、重厚な思考力は持っていたが、沙河戦の攻勢案に反対したように、自重中庸じちょうちゅうよう
の性格であり、曲芸のような思考力は持っていない。げんに井口は戦後、陸軍の未来像を把握出来ず早くも旧式戦術家になった。こういう井口的性格から見れば、藤井のアクロバット的な才能は、その美点よりもその裏の性格的危険性の方が目立つのであろう。 井口省吾の各軍参謀批判は藤井に対して採点がきびしいが、しかしそれ以上に罵倒ばとう
していたのは、乃木軍の参謀長伊地知幸介に対してであった。 「第三軍の伊公」 という呼び方で論じている。藤井と伊公を葬ほうむ
れ、と言うのである。 「貴方きほう
にて何とか葬り方はなきものにや」 と、言う。ただこの両人はなかなか葬りにくいらしく、そのことにも触れている。藤井は兵庫県人で、薩摩閥ではないが、なかなか上司の心を掴むのが上手く
── という意味のことを 「人を籠絡ろうらく
することが巧みで」 という表現で書いている。それに、 「伊公は元帥 (大山巌) との関係上、当方 (満州総軍)
にては処置むずかしく存じ候」 と、ある。これだけの激戦下で、参謀仲間というものはその職務的性格のせいかいかに小うるさい世界かということが分かる。あるいはこの種のうるささは日本陸軍の特徴であるかも知れず、海軍の方にはあまりなかったようである。 |