動員されて大阪に結集待機させられた第八師団は、青森、岩手、秋田、山形の出身者で構成されている。 彼らが大阪に結集したのは九月初めであったが、 ──
行く先は旅順だろうか。 という懸念が、兵士たちの心に重苦しく占めていた。 「旅順に向かう者は士気銷沈
することあたかも病んだ羊のごとく」 といわれた気分は、日本陸軍の最強師団の一つであるこの弘前師団においても例外ではなかった。 ところが師団の幸運は、旅順に行くことをまぬかれたことにあった。この師団が大阪で待機中、どこへやるべきかについて大本営と児玉源太郎との間に十数回の電報往復があり、児玉がついに、 ──
大本営に任せる。 ということで落着したが、大本営でも決定できず、ついに明治帝の決断を乞うた。その決断は九月二十七日におこなわれた。 「北進させよ」 ということであった。北進とは、満州平野で使うということであり、旅順には使用しないということであった。 この師団は、戊辰ぼしん
戦争においていわゆる賊軍側 (桑名藩) の士官として官軍の将山県有朋をさんざんに悩ました中将立見尚文たつみなおふみ
が率いていた。立見は、天才の野戦指揮者で、弘前師団だけでなく、立見個人が戦場に現れるということだけで大きな戦力であるといわれていた。 彼らは大阪から海上輸送され、やがて戦場に着いたときは遼陽戦は終わっていた。 しかし沙河戦末期にかろうじて参加した。沙河戦でこの弘前師団が参加したというのはこの作戦の勝利の要因の一つになった。児玉は大本営に対し、 「聖断ノ明ニ感激スル所ナリ」 と、異例の電報を打ったほどであった。 ところで、全日本軍のがん・・
のようになっている旅順の乃木軍司令部では、弘前師団が平野決戦用に使われたことを不満とし、 「旭川 (第七) 師団を送られたし」 という要請をしきりに行ってきた。この旭川師団を出してしまえば、日本内地には予備隊がゼロになるのである。 「旅順にやれば、最初の突貫とっかん
で師団の大部分はなくなるだろう」 と、大本営では言われていた。 しかし九月も過ぎ、十月になり、十月末の旅順総攻撃もおびただしい血を流したのみで空しく失敗した以上、その兵力補充は当然必要であった。当然どころか、バルチック艦隊が迫りつつある以上、火急に必要であった。それでもなお大本営が、 ──
旅順に旭川師団をやるべきか。 という、考慮の必要のないことに迷いつづけていたのは、乃木軍司令部の作戦頭脳に対する不信のためであった。大本営の煩悶はんもん
は、その一点をのみ堂々巡りしていた。 |