旅順における要塞との死闘は、なおも続いている。九月十九日、乃木軍の全力をあげて行われた第二回総攻撃に続き、十月二十六日にも総攻撃を繰り返したが、いずれも惨澹
たる失敗に終わった。作戦当初からの死傷すでに二万数千人という驚異的な数字にのぼっている。 もはや戦争というものではなかった。災害といっていいであろう。 「攻撃の主目標を、二〇三高地に限定してほしい」 という海軍の要請は、哀願といえるほどの調子にかわっている。二〇三高地さえ落せばいい、そこなら旅順港を見おろすことが出来るのである。大本営
(陸軍部) 参謀本部もこれを十分了承していた。参謀総長の山県有朋も、よくわかっていた。 ただ現地軍である乃木司令部だけが、 「その必要なし」 と、あくまでも兵隊を要害正面にならばせ、正面からひた押しに攻撃して行く方法に固執し、その結果、同国民を無意味に死地へ追いやり続けている。無能者が権力の座についていることの災害が、古来これほど大きかったことはないであろう。 「乃木を更迭こうてつ
せよ」 という声は、東京の大本営のもはや一致した意見になった。乃木びいきの山県有朋でさえこれの同意した。ただ更迭については、乃木の直属上官である総司令官大山巌の同意が必要であった。が、大山は、 「それはむしろ弊害がある」 として、握りつぶした。司令官は一軍の象徴であり、それを作戦の進行中に代えるということは士気にかかわる。戦いは、作戦と士気で決定するものであった。 「作戦がまずければ、参謀をなんとかすればよい。その参謀人事も今のままでいい。今のままのかたちで、ほかに工夫を用いればよい」 と、大山は言った。参謀長伊地知いじち
幸介の首を切るのは簡単だが、それをやれば乃木軍将士たちは、いまさらのように、 ──今までの作戦で多くの戦友が死んだのはすべて乃木と伊地知の罪である。 ということに気づき、一軍は動揺しついには士気の崩壊は食い止められなくなるかも知れない。大山はそれを恐れた。大山が、ほかに工夫がある、と言ったのは児玉源太郎を筋違いながら旅順にやり、乃木。伊地知のかげで覆面の指揮を取らせることであった。これならば、乃木も伊地知も傷つかず、士気の崩壊もふせげる。が、大山は無口な男だけにこのときその腹案を口にしなかった。第一、児玉は沙河における大会戦を遂行中で、身を二つに出来るならともかく、旅順へ行けるはずがなかった。大山は時期を待った。 大山の総軍司令部の参謀たちも、乃木の能力はたれひとり買っていない。乃木の作戦を担当している伊地知の頑迷さとなると、もはや全員が憎悪しおており、 「大山閣下が、旅順における無益の殺生は伊地知にあるということをよくご存じでありながら更迭なさらないのは、やはり薩摩人同士だからではないか」 という者さえあった。 |