この大要塞の攻撃についての日本側の態度を、筆者は時間の経過をときに前後させたり、ときに同じ内容を別の側からくり返し述べたりして、執拗に書いている。同時にその執拗さを恥かしく思っている。が、 「旅順」 というこの地名は、単に地名や言葉というものを超えて明治日本の存亡のかかわる運命的な語感と内容をもつようになった。 ──
日本は、旅順で亡びるのではないか。 という暗い感じをたれしもが持った。幕末から維新にかけて日本は史上類のない苦悩を経て近代 (十九世紀的な意味での)
国家をつくりあげたが、それがわずか三十七年で亡びるかも知れない、ということであった。 大本営陸軍参謀本部次長の長岡外史は、この作戦の最初から、 「全力をあげて二〇三高地を奪えばよい。それで旅順攻撃の戦略的問題の大半は片づく」 という考えであった。 この点、大本営のすべての者に異存がなくただ現地の乃木軍司令部が反対し、頑として正面攻撃主義の既定方針を変えないだけであった。 長岡は説得に苦慮した。 参謀本部の鋳方
徳蔵中佐に対し、 「なんとか、乃木と伊地知を説得してくれんか」 と言い含めて現地に派遣したのもそのあらわれであった。鋳方は、満州へ行くと、すぐ乃木軍へは行かず、満州軍総司令部を訪ね、 「自分は一中佐の身で、とうてい旅順の両閣下
(乃木と伊地知) を説得できる自信がありません。できれば井口閣下のお供をしたいのですが
」 と、児玉に頼んだ。 井口というのは少将井口省吾 (静岡県出身) で、大佐松川敏胤 (宮城県出身)
とともに、児玉の二つの頭脳といわれていた。 井口と鋳方は、八月初めの暑い日、双台溝にある乃木軍司令部に向かった。これを迎えた伊地知が言った最初の言葉は、 「君らに現地の実情や苦しみがわかるか。わが第三軍がほしいのは、後方からのくだらぬ入れ智恵よりも、兵と砲弾たま
だ」 と、言った。血と鉄とをもっとよこせ、というのである。 井口と鋳方はこもごも海軍の逼迫ひっぱく
した事情と要請を伝え、現地軍の大いなる戦術転換を示唆した。ところが伊地知は、 「海軍とは現地の連合艦隊と十分の連絡をとっておる、海軍はそんなに急いではおらんのだ」 と突っぱねた。激論が始まり、伊地知は井口に罵声を浴びせた。井口はこの時、とっさに伊地知を斬って自分も切腹し、それによって日本をその危機から救い出そうと思ったほどであった。 |