この巨砲が旅順へ送られるという驚嘆すべき報せは、むろん電信で打たれた。 長岡が、乃木の伊地知宛てに打った電文の原文は、次の通りである。 「攻城用トシテ、二十八サンチ榴弾砲四門ヲ送ル準備ニ着手セリ。二門ハ隠顕砲架
、二門ハ尋常砲架ニシテ、九月十五日ゴロマデニ大連湾ニ到着セシメントス。意見アレバ聞キタシ」 この短い電文の行間に長岡の意気込みがよくあらわれている。 「意見アラバ聞キタシ」 というのは、現地軍に対する東京の心づかいのあらわれであった。姿勢が低い。 ところがこれに対する乃木司令部の返電は、歴史に大きく記録されるべきであろう。 「送ルニ及バズ」 というものであった。古今東西戦史上、これほどおろかな、救い難いばかりに頑迷な作戦頭脳が存在し得たであろうか。 「長岡は歩兵のあがりだ。二十八サンチ榴弾砲というものがいかにやっかいなものであるかを知らんのだ」 と、乃木の前で、伊地知と豊島というこの二人の砲兵の専門家が揚言した。 「まず砲床からつくってゆかねばならない。ベトンが乾くまで一、二ヶ月は要るのだ。あと組み立てにどれだけの日数がかかるか見当もつかん。そんなことすら東京の連中は知らない」 と、豊島が言い、伊地知が和した。しかし伊地知は豊島が言う、 「ベトンは乾くだけでも一、二ヶ月」 と、咆ほ
えあげるほどには、阿呆ではなかった。しかし全部で三週間はかかかるのではないかと思い、三週間もかかれば総攻撃に間に合わないと思い、 「送ルニ及バズ」 という返電を打ったのである。 豊島も伊地知も、じつは専門家ほどの専門知識をもっていなかった。この巨砲はいかに分解運搬が困難であるとはいえ、据えつけには十日もあれば十分ということは、この世界の常識であった。彼らは一知半解の知識で、体面だけは傲然ごうぜん
として専門家の態度を東京の 「しろうと」 に対してとってみせたのである。 ところが、その 「東京」 には大砲研究の世界的権威というべき、有坂成章がいたし、 「砲床構築班」 という組織が臨時につくられた。その長は砲兵大尉横田穣みのる
であった。横田は、 「ご心配にはおよびません」 と、長岡に確言した。 この砲は、それを乗せるために船が仕立てられ、やがて大連湾に入り、達子房身に到着したが、到着してからわずかに九日で砲床も組み立てもすべて終わり、発射出来るまでになったのである。この間の横田の苦心は大変なものであった。しかし、出来たのである。 砲の数も、最初の予定よりもふえて六門になっていた。のちさらに追加されて十八門にまでふえるにいたる。 |