「長岡は、気が狂ったのでしょう」 と、伊地知参謀長は、乃木
希典に言った。 砲声はたえず聞こえているが、しかしこの軍司令部のある辺りまでは飛んで来ない。 この乃木の参謀たちは前線まで匍匐
して出るという、習慣がない点で特徴的だったから、どの参謀の服装も美しく、参謀のしるしである金のナワの胸飾りはぴかぴかしていた。 乃木はいつも、同じ表情でいる。 {仁者」 と、後年言われたようにその眼差まなざ
しはいつも他人に優しく、幕僚たちに怒りを見せたこともなければ、荒い言葉を投げたこともなかった。内向的な性格をあらわすその唇もとは、ときにわずかに微笑することがあるが、元来がいわゆる泣き顔であるため、ほほえむと、泣いているようにすら見えた。 「豊島少将と、話をしましたか」 と、乃木は伊地知に聞いた。豊島陽蔵は、乃木軍の麾下にある攻城用の砲のすべてを一括して指揮している
「攻城砲兵司令官」 という職にある。伊地知も豊島もメッケルの門下ではなく、陸軍大学校を出ていなかった。この点で、 「陸軍大学校など出たところで戦いくさ
はわからんさ」 と互いに言い合って、話が合った。 ついでながら陸軍大学校を出ているといったところでたしかに戦がわかるものではない。将領や作戦家といった軍人は才能の世界に属しているもので、画家や彫刻家が一定の教育をほどこしたところで出来上がるものではないという点で同じであった。 ついでながら秋山真之はその戦術を独習して会得えとく
した人物で、彼は海軍大学校の教官はしたものの、大学校の学生であったことはなかった。源義経や豊臣秀吉、ナポレオンといった天才たちも、一定の教育を受けたわけではない。 ただここで言えることは、海軍の場合、連合艦隊を構成する艦隊なり戦隊なりの作戦担当者は、真之が海軍大学校で指導した学生がほとんどだったことである。これは作戦思想の統一と作戦意図の伝達にきわめて有利であった。 陸軍の場合も、満州軍総参謀長の児玉源太郎が、メッケルの当時学生はでなく大学校の管理職にあったが、学生同様に受講し、メッケルをして、 「コダマは偉大である」 と言わしめたほどにメッケル戦術を吸収した。 陸軍の場合、日露戦争はメッケル戦術をもってやろうとしていた。大本営参謀本部次長の長岡もそうであり、各軍の参謀長や参謀にその門人が多い。自然、作戦思想がよどみなく伝わったが、乃木軍の場合だけはこの電流について不導体であった。 「大本営の連中はなにも知りゃしないのだと豊島も笑っておりました」 と、この巨砲について伊地知は乃木に言うのである。伊地知も豊島も砲兵が専門ということになったいた近代戦に暗い乃木は、彼ら
「専門家」 と称する幕僚たちに従わざるを得ないのである。 |