〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/03/07 (土) 

旅 順 (十八)

旅順の乃木軍から、
── 兵を送れ。
と、際限もなく兵員の補充を要求してきている。送れば必ず敵の要塞の (要塞にすらとりつけず) ごう の埋め草になってしまう。乃木軍の司令部は人間を殺すということ以外に作戦を知らぬようだ、という声が、大本営でも高かった。乃木軍の作戦頭脳の頑固さは、みずからの失敗を次の作戦の智恵として使うということを知らぬようであった。
「日本軍は、くりかえしおなじ方法でやって来る」
というのは、ロシア側の資料にある。
旅順の前線で砲火をあびている日本軍将士の間でも、後方の軍司令部に対する批判が高まってきていた。
この乃木軍の下で働いている師団長や旅団長といった将官級で、生まれついての将才と軍人としての資質を持っていた一戸兵衛いちのへひょうえ (少将、旧津軽藩士) は、金沢の第六旅団を率いて功城に参加し、いわゆる一戸堡塁を奪い取った人物だが、その一戸さえ (さえというのは一戸は古武士的風格という点で乃木と共通した性格を持っていたことをさす) 乃木をひそかに批判し、
「あの旅順包囲の期間中、私は前線で戦いながら、なぜ軍司令官 (乃木) はこうも状況に適しない、訳の分からぬ命令ばかりを、出すのだろうか」
と、思ったと言う。
このあまりにひどい作戦指導に、士卒こそ従順に死んで行ったが、将官級のなかの一、二の者はわざと病気になり後方に送られる者すら出て来た。明治の日本人にとって国家と天皇というものが絶対のものであったのに、そういう連中の中でもわずかながら動揺が現れてきたことは確かであった。
「軍司令部はあまりにも後方にいすぎて、この前線の状況を知らない」
ということは兵卒ですら感じるようになてきた。
「無益の殺生せっしょう
という言葉が、大本営の中で日常使われるようになった。
後年、陸軍大学校で旅順包囲戦における日本軍将士の戦場心理について特別講義した当時の少佐、のちの中将志岐しぎ 守治の速記録によると、
「乃木将軍もその当時は今日人が崇拝するがごとき司令官ではなかったのである。第三回総攻撃の前だったが、今度の攻撃で旅順が落ちねば軍司令官はまさに死を決せんとしているとの風説が前線に伝わったことがある。しかしその風説は、少しも第一線部隊の督励にもならなかったのである。それはご随意に、とばかりに聞き流しただけである。また将軍の子供が二人戦死したごときも、今日、大いに第一線の士気を鼓舞したように言い伝えているが、まったく虚偽である。第一師団方面は知らぬこと、第十一師団では当然ぐらいに考えていたにすぎなかった」
と、語っている。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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