旅順のケースを、日本敗亡の危機から救い出したのは、乃木軍司令部の作戦能力ではない。 むろん乃木軍司令部が、乃木個人の気持や感傷とはかかわりなく、次々に要塞に向かって叩き込んだ人血によるものであることは間違いないが、それは動因ではない。状態にすぎない。さらに言葉を多くして言えば、すすんで
(あるいはやむなく) 死地についた数万の明治日本人の精神のこれは壮大なる 「状態」 であった。乃木軍司令部は明治日本人の国家への忠良さを頼りに、その上にのっかって世界戦史に類のない死の命令の繰り返しをやっていたに過ぎない。 この稿のこのところ、東京の大本営にいる長岡外史のケレン的性格について触れた。 しかし、長岡のケレン味は、旅順の日本人たちを救う上で十分に意味があった。なぜならば彼はそういう性格だけに、 「智恵」 とか、 「才覚」 だとかいったふうの話を聞くことが好きであり、新しいアイディアに対しては身を乗り出して聞くという姿勢をとった。乃木軍の参謀長の伊地知幸介の固定観念で詰まり切っている性格とは、正反対であった。 あるとき、長岡が陸軍省へ行き、砲兵課長山口勝大佐を訪ねたとき、そこへ偶然やって来た人物がある。 「有坂砲」 の名で知られる大砲の技術者有坂成章
であった。有坂は少将で、長州人と呼ばれてもいい旧周防すおう
岩国藩 (長州毛利家の分家) の旧藩士である。彼の有坂砲というのは在来の速射砲を大改良したもので、三十一年式速射砲と呼ばれた。この砲は、日露戦争における野戦で大きな威力を示した。のち中将、男爵、大正四年没。 「旅順のことだかね」 と有坂は入って来た。有坂はこの当時、陸軍技術審査部長という職にいた。 「あれじゃとても陥ちないよ」 長岡は、むっとした。落ちないというのはわかっている。だから苦慮しているのであり、乃木軍の軍司令部に対して作戦を変えるように何度も示唆しつづけているのである。 「何かいい作戦があるんですか」 「作戦じゃない。私には作戦のことは分からない」 と、有坂は言った。 「私に分かっているのは大砲のことだ。いま旅順へ持って行っている大砲、ああいうものではとても落ちないよ」 冗談じゃない、と長岡は思った。乃木軍にわざわざ砲兵科出身の伊地知や豊島てしま
といった連中を配してあるのである。 「私は奇抜なことをいうようだが、二十八サンチ榴弾砲りゅうだんほう
を送ろうじゃないか」 これには、長岡も息をのんだ。二十八サンチ榴弾砲というのは、日本内地での要塞地帯に固定させてある巨砲である。 |