陸軍は山県がそうであったために、海軍とは違い、軍隊の機構や装備、または兵器がロシアより優れていたわけではない。 そのうえ、日本陸軍の作戦を担当する参謀本部の二人の天才を相次いで失った。 総長川上操六と次長田村怡与造
の死がそれであった。このため、開戦の寸前になって児玉源太郎が、 ── 自分以外にない。 として、内務大臣の職を捨てて官吏としては格下の参謀本部次長
(少将級の職) に就任したことはすでに述べた。 ところがその児玉も、全野戦軍の総参謀長として野戦へ行くことになり、あとが空席になった。 児玉が後任の人事を考え、 「スグコイ」 と、電報で呼び寄せたのが、四十七歳の少将長岡外史であった。長岡はこの当時、広島の歩兵第九旅団長として動員命令に備えていた。ところが東京へ来い、という。それも
「家族ヲマトメ馬モ連レテ上京スベシ」 とあった。いそぎ東上して参謀本部へ行き、次長の児玉源太郎に面会すると、 「おれは満州へ行くことになった。あとはおまえがやれ」 という。長岡は、驚いた。 次長は日本陸軍の全作戦を担当するためによほど以前から対露戦を研究していた者がその席にあることが望ましかったが、この場合の日本陸軍の右のような切羽詰った事情からそういうことはいっていられなかった。 この場合、なぜ児玉は長岡外史を選んだのであろう。 陸軍の人事方針として、大本営と現地司令官を問わず、参謀長にはメッケルの薫陶くんとう
を受けた陸軍大学校出身をすえることに決めており、作戦はすべてメッケル風にやることに決めていた。 ── 日露戦争はメッケル作戦。 といわれたゆえんであった。 その門下である陸軍大学校第一期生がすでに少将になっていることはすでに触れた。 秋山好古もそうであった。 「秋山にはコサック騎兵に当らせる」 ということは既定の方針で、このため彼は野戦に出ている。それに好古はとくに陸軍大学校の成績が優秀だったわけではない。この一期生でもっとも戦術の成績が優秀だったのは、下士官からあがって将校になった旧南部藩
(岩手県) 出身の東条英数であった。が、児玉は東条を選ばず、歩兵の旅団長で出征させた。 この第一期生十人の中で長岡だけが長州人であった。児玉は派閥意識はうすかったが、しかし長州軍閥の大親玉の山県有朋が参謀総長であるらめ、 「次長職というのは山県のジイサンとの間の調整がうまくとれなくては困る」 という、ただそれだけのことで長岡外史を選んだ。児玉の察するところ、山県は口出しの多い人物で、なにかといってくるとき、まあまあとなだめてその案をひっこめせさるような人物が必要だったのである。そのため長州人の長岡を選んだ。他府県出身の次長なら山県に呑まれてしまうか、それとも喧嘩になるか、どちらにせようまくない。 参謀本部次長長岡外史はその能力で選ばれたわけではなかった。 |