〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/03/04 (水) 

旅 順 (十二)

陸軍には、海軍の山本権兵衛に相当するようなすぐれたオーナーがいなかった。
山本には、
「日本海軍はどうあるべきか」 という構想が最初からあり、いかにすればロシアに勝てるかという主題がその構想を精緻せいち にし、それをもって海軍の体質から兵器まで一変させた。
が、陸軍は山本に相当する人物を持たなかった。
地位と権力からいえば山本有朋がそうあるべきだったが、この権力好きな、そして何よりも人事いじりに情熱的で、骨の髄からの保守主義者であったこの人物の頭脳に、新しい陸軍象などという構想が浮かぶはずがなかった。
この山県が、幕末、幕府体制に挑戦した志士あがりであるというその経歴がむしろこの場合の不思議なほどであったが、しかし厳密には彼は志士とはいえない。
彼が所属した長州藩そのものが反幕行動をとったため、その下級藩士であった彼もまた自然、長州藩の動きの中で動いた。
幕末の山県の経歴をどう綿密にみても、彼に日本国家の革新構想をもったというような志士としての資格証明がない。要するに、最初から構想力を持って出て来た人物ではなかった。彼は少年の頃、身分脱却をはかろうとした。
そのことが幕末の彼を動かしたエネルギーでった。彼は長州藩の足軽の家に生まれた。
「山県という人物の奥にはなんというか、いやしさがある。なんといっても足軽あがりなのだ」
と、幕末の賊軍にまわった南部藩の家老級の家に生まれた原たかし がのちに言ったというが、足軽の出だからやることや考え方にいやしさが出ているということではないであろう。出世意識や栄達意識、あるいは自己の権勢を守ろうという意識が強すぎることが山県の印象を暗くし、卑小にしている。
山県は少年の頃宝蔵院流の槍術を学ぶことに熱中した。槍術がおもしろかったわけではなく、藩の師範になれば足軽階級から抜け出して士分になれるからであった。かれがそういう出世意識のなかにいたとき、この藩の吉田松陰が世界の中の日本について狂うばかりの危機意識を持ち、行動していた。のち山県は故松陰の門人たちで結成された藩内での政党ともいうべき松下村塾系のグループに所属するが、門下であったという事実はやや希薄である。が、彼は終生門下と称していた。すくなくとも松陰死後その党派に属し、やがて系列によって奇兵隊軍監なり、そのことによってのちの革命政府における彼の地位を決定付けた。ほかに山県は玄人はだしに短歌と造園がうまかったが、しかし新機軸をなすというような種類の才能ではなく、すべて保守的であった。
そいう人物が、
「陸軍の法王」
と呼ばれていたのである。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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