乃木軍の作戦のまずさとそれを頑として変えようとしない頑固さは、東京の大本営にとってはすでにがん
のようになっていた。 事は簡単なはずであった。 「攻撃の主力を二〇三高地に向ければよいのだ。それだけのことが、なぜ出来ないのか」 ということである。二〇三高地さえ陥せばたとえ全要塞が陥なくても、港内艦隊を沈めることが出来る。旅順口劇の作戦目標は達することが出来るのである。兵力を消耗することもより少なくてすむであろう。 「二〇三高地を攻めてくれ」 と、大本営ではさまざまな方法で、乃木軍司令部に頼んだ。が、命令系統からいえば、大本営は満州軍総司令部を通さねばならず、乃木軍を直接指導できない。さらに現地の作戦は現地に任せるという原則がある。そういう手前、命令ということは出来ない。示唆しさ
できる程度である。 大本営海軍側は、 ── たのむから二〇三高地をやってくれ。 と、連絡会議ごとに陸軍側に懇請した。陸軍側も、その意見でいる。ところが現地の乃木軍が頑としてきかないため、どうすることも出来なかった。大本営がもっている権限は、乃木も伊地知も辞めさせてしまうことであった。が、作戦遂行中に、これはなんとしてもまずい。 海軍としては、岩村団次郎という高知出身の中佐が連絡将校として旅順へ派遣されたことがあった。岩村は、乃木を伊地知の前で、二〇三高知の奪取がいかに急務であるかを説きに説いた。ところが、伊地知は、 「陸軍の作戦に関し、海軍の干渉は受けぬ」 と、次元のちがう場からひややかにそれを突っぱねた。岩村は土佐気質の強い男だったからかっとなり、 「されば閣下は、帝国が滅びてもかまわぬとおっしゃるのであ¥すか」 と、伊地知の胸を突きとばし、さらに激昂のあまり乃木の体にも触れた。あとで乃木が、 ──
岩村中佐のつばきを浴びただけで、べつにどうということはなかった。 と証言してやったため、岩村は海軍の人事簿から削られることをあやうく免れた。 もっとも伊地知については満州軍から同期生の幕僚が、その頑迷さを指摘し、作戦計画の大転換をすすめたときも、たがいに昂奮して殴りあいになってこともあった。 二〇三高知問題については、なお事態が変化したのは、第二回総攻撃のとき、乃木の隷下にある第一師団の参謀長がこの高地の重要性を認め、ぜひ攻撃したいと軍司令部での参謀長会議で献策した。これに対し伊地知は、 「では、第一師団に余力があればやってもいい」 と、許した。あくまで助攻であった。 これによって第一師団はその一部をもってこの高地を攻めた。山麓に散兵壕がある程度の防備だったが、日本側が小部隊だったため撃退された。このことはわざわざステッセルに二〇三高地の重要性を教えに行ったような結果になった。その後、ロシア側は急ぎこの高地を最大級の要塞にしたのである。
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