〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/03/02 (月) 

旅 順 (八)

少将伊地知幸介 は、もし彼が維新前後に成人した薩摩人でなければ、まったく無名の生涯を送ったに違いない。
そういう環境にあった彼は最初から機会に恵まれていた。明治四年、他の薩摩の青年とともに当時で言う 「親兵」 になり、東京へ出た。明治五年陸軍幼年学校が出来ると、郷党の先輩にすすめられて入校した。さらに同八年、陸軍士官学校が出来た時、ごく自然に第二期生として入校した。
少尉に任官するとすぐフランスへ留学を命ぜられたとき、
「伊地知はまるで薩閥の箱入り息子のようだ」
と、うらやましがられた。フランスに三年滞在して砲兵科を学んだが、帰国するとほどなく当時陸軍卿だった大山巌がヨーロッパを巡遊するというので、その通訳がわりに随行した。随行の役目が終わるとそのままとどまってドイツに留学した。このころ日本に参謀養成のための陸軍大学校が出来たが、こういう事情で 伊地知は陸軍大学校を経ていない。
「そのかわり伊地知は本場仕込だ」
といわれた。本場とは、ドイツのことである。
乃木 希典との縁が出来たのも、ドイツ滞在時代であった。乃木は当時少将で、ヨーロッパ見学のためにやって来た。伊地知はその通訳として各国をまわった。
日清戦争ののち大佐にすすみ、英国公使館付武官になったが、ともかく外国生活が長く、日本での隊付や団隊長をつとめた経験がほとんどない。そのまま少将に昇進し、明治三十三年参謀本部第一部長になるという、陸軍官僚としてはめずらしいほどの幸運な栄達をとげている。
「伊地知は、英独仏で仕込んだ男だから」
というのが、陸軍の首脳の伊地知に対する期待であった。伊地知がその長い海外生活で身につけたものはまず語学であったろう。ほかに得たものは作戦研究とか軍隊実務とかいうものではなく、軍隊というものの概念であった。近代軍隊や軍事学についての概念であり、実際の戦争において彼がどれほどのことがやれるかは、たれにもわからない。が、その彼が開戦の四年前に日本の作戦計画の中枢ともいうべき参謀本部第一部長になったのは、この当時の日本の気分をよくあらわしていた。。舶来品とか帰朝者、洋行がえりといったような言葉がきわめて権威的に使われていた時代であったから、それからみると少尉任官のころから少将になるまでほとんど西洋で送った伊地知は、当時の日本人から見れば準西洋人というべき存在であった。
「伊地知なら何でも出来るだろう」
と期待され、その職についた。彼は日露戦争さえなければ官僚として幸福な一生を送ったに違いない。
もっとも、官僚としては不運でもなかった。彼は旅順であれほどの失策を重ねつづけたにもかかわらず、戦後男爵になった。藩閥のおかげであった。ただ大将にだけはなれず、中将でとどまった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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