旅順要塞への第二回総攻撃は、むろん第一回のように単純な突撃主義ではなかった。 火砲をもって十分にたたいておくという
「正攻法」 を併用し、そのうえで突撃した。この突撃は、いたずらに人間を敵のベトンに投げつけただけに終わった。 ついでながら要塞攻撃については、すでにフランスのボーバンが樹立した大原則があった。 まず、攻撃側が、攻撃用の砲台を構築することであった。この思想はすでに日本では戦国期にあり、付城
といわれ、城攻めの名人と言われた豊臣秀吉が、織田家の一武将のころからさかんにこの方法を用いた。 ボーバンの戦術では、その攻撃用砲台をつくるだけでなく、歩兵の生命を守るために平行壕を掘る。最後には坑道を穿うが
って敵の外壁を地下から破壊する。それによって外壁を占領し、ついで胸牆きょうしょう
を爆破し、しかる後に突撃態勢に入るのが原則であり、この当時世界の陸軍における常識になっていた。 「それ以外に方法はない」 と、ボーバンは断言していたし、欧州における多くの戦例がそれを照明していた。 もっとも、乃木軍はこの
「正攻法」 をとらなかったわけではない。不徹底ながらも第二回総攻撃は、この正攻法を併用したということはすでに触れた。塹壕ざんごう
を掘ったり、またさまざまな方面から敵の堡塁ほうるい
に向かって坑道を掘ったりしたが、しかしロシアは要塞を守る戦いにかけては世界一というべき戦闘技術をもっており、この程度の幼稚な坑道作戦に対しては適切に手を打ち、妨害し、このためあまり功を奏さなかった。 伊地知参謀長は、 「要塞など、大砲でつぶせる」 という驚くべき楽観論を初めから持っていた。攻撃力は防御力にまさるという意見であったがこれは近代要塞戦の常識から見ても荒唐無稽こうとうむけい
の思想であった。むろん、乃木軍の参謀の中でも、ボーバンの原則を知っている者はいたが、しかし、 「あれは魂のない毛唐の議論だ」 と、揚言ようげん
していた。日本軍には大和魂があるというのである。大和魂は鉄壁をも熔かすであろうであろうという信仰は実施部隊にこそ必要であったが、しかし高等司令部がその職能上それに頼るべきではなかった。彼らは国家と国民から、より少ない犠牲において戦勝を得るということの期待と信頼との交換においてその尊厳性が許されている存在であった。 すでに日本軍士卒の従順さについて触れた。とくに兵卒は、世界でもっとも従順な兵卒であった。その兵卒の間でさえ、 「あんな参謀長では駄目だ」 と憤慨する者が出て来た。また補充されて前線へ送られる兵が、北進軍
(野外決戦軍) に配属されるとあれば喜び、二義軍に入るとなれば士気はめだって落ちた。 |