〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/03/01 (日) 

旅 順 (四)

乃木 希典の最大の不幸は、彼の作戦担当者として参謀長伊地知幸介が選ばれたことであった。乃木に選択権があったわけではない。陸軍の首脳がそれを選んだ。
この各軍司令官とその参謀長の人事を決めるについての最終の決定権を握る者は山県有朋であった。
「第三軍は乃木にやらせよう」
と、決めたのは山県である。山県は藩閥人事の本宗ほんそう であった。山県は長州軍閥の大御所であり、当然ながら長州人の乃木を愛している。皮肉にも乃木自身は人事上の藩閥思想がまったくないばかりか、どちらかといえばそういう習風についてのひそかな批判者であったが、しかし山県の方が深情けを持っていた。
「陸の長閥ちょうばつ
という。これは動かし難い事実であった。 「薩の海軍」 の場合は薩閥の山本権兵衛自身が、日清戦争の前に薩摩出身の先輩たちのうち、無能者の首をことごとく切って組織を新たにし、機能性を鋭くし、清国に勝つことを得たが、しかし 「長の陸軍」 の場合は、そういう新生改革の時期がなく、大御所である山県有朋が、依然として藩閥人事を握り、長州出身者でさえあれば無能者でも栄達できるという奇妙な世界であった。
「乃木がよかろう」
と、山県が言ったのには、そういう事情がある。この当時、参謀総長は山県自身で、陸軍大臣も長州藩整武隊士あがりの寺内正毅まさたけ である。寺内というのは軍事的才能もあまりなく、実戦の経験もほとんどなく、軍政家の位置にありながら、陸軍の将来を見通しての体質改善ということもしなかった。ただ内部人事は上手であり (むろん藩閥的発想によるものだが) 、さらに書類が好きで、事務家としては克明であった。
この日露戦争における作戦の中枢ちゅうすう を握っているのは、参謀本部次長であった。それが長州人の少将長岡外史であった。
この長岡は、たとえ長州人でなくても彼自身の能力でその地位を獲得できたであろう。彼はいい意味での夢想家で、しかし現実把握力をもち、構想力を兼ねていた。作戦家としては同じ長州人の児玉源太郎のような天才でないにしても十分にその能力はあった。明石大佐に対し、ロシアに革命を起こさせるべく一介の大佐に百万円を与えたのは、この長岡外史である。
長岡は、日本に士官学校が出来たときに入校し、第二期卒業生になった。
陸軍大学校では、好古とおなじく第一期生であった。要するに、近代化した陸軍における正規教育を受けた最初のグループに属している。この最初のグループは、日露戦争当時、少将であった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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