〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/03/01 (日) 

旅 順 (二)

旅順要塞の攻撃については、乃木軍のみが責められないことは前に触れた。日本陸軍そのものが認識について実に疎漏そろう であった。
「この二十世紀の晴れの舞台に、青銅の旧式砲を持ち出すとは何たることであろう」
と、この戦争の当時、大尉であった佐藤清勝が 「予が見たる日露戦争」 に、いきどおりをこめて書いている。
青銅砲とうのは、十五サンチ青銅臼砲きゅうほう と九サンチ青銅臼砲のことであった。このような砲 (あとで海軍から重砲を借りたり、内地の海岸要塞砲を持って行ったりしたが) をもって世界で最も新しい近代要塞を攻めようとしたところに、おそるべき錯誤があった。
錯誤というようなものではないであろう。日本陸軍は、伝統的体質として技術軽視の傾向があった。これはその創設者の性格と能力によるところが大きいであろう。日本陸軍を創設したのは技術主義者の大村益次郎であった。が、大村は明治二年に死に、そのあと長州奇兵隊あがりの山県有朋がそれを継いだ。山県の保守的性格が、日本陸軍に技術重視の伝統を希薄にしたということは言えるであろう。技術面の二流性は、兵卒の血でおぎなおうとした。
もっとも、別な意味では、日本陸軍はロシア陸軍よりもやや精度のすぐれた兵器は持っていた。とくに小銃がすぐれていた。が、いかに日本の誇る三十年式小銃を兵士たちがもってしても、旅順要塞をよろ っているベトンはびくともしない。
乃木の仕事が最もはかどったのは、旅順の前面にある小要塞群を一つづつ潰した頃であった。これらは簡単に陥した。そのあといよいよ本要塞を攻めるについて、六月十六日、敵の守将ステッセル将軍に対し、降伏を勧告した。むろんスッテセルは拒絶した。
これについて同要塞の将官の一人であるコステンコ将軍は、こう書いている。
「降伏勧告書が来たということは、すぐ全軍に伝わった。このことは日本側の期待に反し、かえって全軍の士気を鼓舞する結果になった。その理由は、おそらく乃木将軍はこの要塞を陥すだけの力を持っていないからこのような書状を送りつけて来たのであろうと将士たちが解釈したからであった」
乃木軍がいよいよ第一回総攻撃を始めたのは、八月十九日からであった。遼陽会戦の開始より少し前であった。ところがこの攻撃が、弱点攻撃を以って対要塞戦の原則とするにもかかわらず、最も強靭な盤竜山とひがし 鶏冠山けいかんざん を選び、その中央を突破して全要塞を真二つに分断しようというほとんど机上案に近い作戦を立て、実施した。
この実施によって強いられた日本兵の損害は、わずか六日間の猛攻で死傷一万五千八百人という巨大なものであり、しかも敵に与えた損害は軽微で、小塁一つぬけなかった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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