旅順の港とその大要塞は、日本の陸軍にとっての最大の痛点であり、ありつづけている。 東郷の艦隊は、悲愴を通り越してこっけいであった。彼らは陸軍が要塞をおとさないため、なおもこの港の口外に釘づけされ、ロシアの残存艦隊が出て来て海上を荒らしまわることを防ぐため番人の役目をつづけている。大戦略から見ればこれほどの浪費はなく。これほど日本の勝敗に関してあぶない状態はなかった。 ──
バルッチク艦隊はいつ出てくるか。 という報は、欧州からの情報はまちまちでなだ確報はない。無いにしても、 「早ければ十月に日本海に現れる」 という戦慄すべき説もおこなわれていた。 しかしながら旅順は文字通り鉄壁で。季節はすでに夏が過ぎようとしている。いまかりに旅順がおちても
(それは夢だが) 艦隊の修理には最低二ヶ月はかかるのである。 各艦を修理して機能を回復させねば、とてもバルチック艦隊に勝てる見込みはない。いま陥ちたところで、ぎりぎり
(十月説とすれば) であった。海軍は、あせった。 東京の大本営も、あせりにあせった。 「乃木では無理だった」 という評価が、すでに出ていた。参謀長の伊地知幸介の無能についても、乃木以上にその評価が決定的になりつつあったが、しかしそういう人事を行ったのは東京の最高指導部である以上、いまさらどうすることも出来ない。更迭説
も一部で出ていた。しかし戦いの継続中に司令官と参謀長を変えることは、士気という点で不利であった。 「あの作戦では、士卒を大量に投じては旅順のうめ草につかっているだけで、旅順そのものはびくともしていない。いったい何をしているのか」 という批評も、大本営では出ていた。驚嘆すべきことは、乃木軍の最高幹部の無能よりも、命令のままに黙々と埋め草になって死んで行くこの明治という時代の無名日本人たちの温順さであった。 ──
民は倚よ らしむべし。 という徳川百年の封建制によってつちかわれたお上かみ
への怖おそ れと随順の美徳が、明治三十年代になっても兵士たちの間でなお失われていない。命令は絶対のものであった。彼らは、一つ覚えのように繰り返される同一目標への攻撃命令に黙々と従い、巨大な殺人機械の前で団体ごと、束たば
になって殺された。 しかも乃木軍の司令部はつねに後方にありすぎ、若い参謀が前線に行くことも稀で、この惨状を感覚として知るところがにぶかった。この点、この攻囲戦の最後の段階で、児玉源太郎がこの戦線に現れたとき、まずこの点に激怒した。児玉は乃木に対しては寛容であった。乃木にはただ全軍を統御するというだけが、期待されていた。 が、実際作戦を行うべき伊地知参謀長以下の参謀に対しては痛罵した。一参謀があまりに戦況を知らないというのでその参謀懸章を、衆人の前で引きちぎったこともあった。ただし児玉が乗り出したのは末期のころで、この時期、命令系統上、すべては乃木軍の裁量に任されている。
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