〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/02/27 (金) 

黄 塵 (四十三)

ついでながら日本人は、他民族に比べて過敏なために小銃の射撃が下手であった。
日清戦争の時も清国兵より劣るという状況があったし、この日露戦争においても、ロシア仕官も外国の観戦武官もひとしく認めたのは、日本歩兵の小銃射撃のまずさであった。日本陸軍には、
── 射撃馬鹿。
という言葉さえあり、少々にぶい人間の方が、撃発の時に精神の沈静を要する小銃射撃には適しているといわれた。日本人一般が小銃射撃の点で能力が低いとされるのは、神経が状況の対して過敏で、要するにカッとなるからだろう。
しかし大砲の射撃の上手さは、陸軍においてもロシア砲兵の能力をややしのいだ。
海軍にあっては、その差が大きかった。大げさに言えば懸絶けんぜつ していた。
この射撃重視は東郷の基本方針であり、彼は戦闘の休止中は絶え間なく射撃訓練をさせた。それだけでなく、彼は全艦隊から射撃の優秀な者を集めて第一級の者を戦艦艦隊に乗せ、それに次ぐ者を上村の重巡艦隊に乗せた。戦場の運命は大艦の巨砲が決するという彼の思想を、もっとも単純に強く打ち出したことが、彼の艦隊の成功のもとになった。
この時の上村艦隊の命中率は、奇蹟というほどに高かった。海戦三十分ほどの間に、敵の三艦にいずれも火災が起こった。
しかも上村艦隊にとって有利であったのは昇ってゆく太陽を終始背にしたことであった。上村はこの位置を賢明に維持しつづけた。太陽を背にすれば敵がよく見え、自然照準に狂いが少ない。
ウラジオ艦隊の不覚は、太陽にめがけて射っていたことであった。このため、ときに上村艦隊が逆光でシルエットになったり、射手の目が早く疲労したりした。
開戦二十九分後の午前五時五十二分、ロシアとグロムボイは針路を右転して南方に逃走した。
燃えつづけているリューリックのみが戦場に取り残された。
が、このウラジオ艦隊のロシア人はのちのバルチック艦隊の連中とは別人種のように勇敢で、僚艦に対する戦友愛もつよかった。いったん逃走したロシアとグロムボイはひたたび引っ返してリューリックそばに寄って来た。上村艦隊はすぐ前進し、再来した敵二艦の前路をはばもうとし、北西微西に変針して敵を左舷に見、並航して砲撃を加えた。
チューリックの再起への努力は涙ぐましいものがあった。彼はようやく他の二艦に合して陣形をととのえ、激しく応戦したが、やがて午前六時三十分、舵機をくだかれ、漂いはじめた。
上村は、ロシアとグロムボイを追った。六千メートルで敵を縦射した。集弾率がよく、おびただしく命中したが、しかし敵は大艦であり、沈むまでにいたらない。ところが驚くべきことに敵の二艦はこれほどの苦戦を重ねつつ、その戦闘中に午前七時ごろもう一度リューリックのもとに引き返して来たことであった。ただしこのときリューリックはすでに救済不能の状態にあった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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