〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/02/27 (金) 

黄 塵 (四十四)

舵機をこわされ、猛火に包まれたリューリックは、僚艦にとってはもはや手のつけようもない。
ロシアとグロムボイはいったん近づいたが、また北走した。両艦とも、火災を消してはまた被弾して起こしていた。上村艦隊はそれを追った。
ところが驚嘆すべきことに、この敵の両艦は、まだ僚艦のリューリックを戦場に残して行くのにしのびなかったらしく、何度目かの逆もどりをしようとした。が、追跡する上村艦隊はそれを阻み、視界が砲煙で暗くなるほどに射すくめたため、もはや断念して北方に針路を転じた。
── ウラジオへ帰ろうとするのだ。
と、上村は艦橋でどなった。帰らせまいといおうことであろう。
出雲と後続三艦は、速力をあげた。しかし長い戦闘活動のため艦底がよごれていて固有の速力が出にくかった。
敵は存外に高速であった。
両艦とも、火を噴いてはまた消している。艦上で懸命の消火作業をしているのだろい。
大砲の活動がいちじるしくにぶっているのは多くが破壊されたと見ていい。そのくせ、機関もやぶれず水線甲帯にも傷がついていないのか、速力がかわらないのである。
これが、 「飛ぶ魚雷」 と恐れられた日本の砲弾の短所であった。敵の艦上のいっさいを破壊して戦闘力を奪ってしまうという性能に重点を置き、水線甲帯を破って浸水させたり。艦底までつらぬいてそこで爆発をおこさせたりする性能は意識的に軽視されていた。
沈没はまぬがれているとはいえ、ロシアとグロムボイの被害はもはや軍艦としては廃品同然になっていた。ロシアは上甲板はすっかりこわされ、中甲板の砲郭もほとんどが破壊され、マストも折れ、煙突すら折れていた。グロムボイも、上中下の甲板の防御物がことごとく破壊され、両艦あわせて使える主砲は三門だけになっていた。将校の半数が戦死した。兵員も無傷なのはまれで、働ける者は戦闘より消火に従事した。
それでも、十九ノットという快速で走っているのである。それを追う出雲以下も同じ速力で、これでは追いつけそうにない。背後から砲弾を送りつづける以外に手がなかった。上村はこの二艦を沈めようとしていた。この追跡中、ロシアは五回、グロムボイは三回、火災をおこした。
上村は、艦橋で敵をにらみつけて動かなかったが、追跡して一時間半たったとき、参謀長がチョークをとって黒板に文字を書き、上村に示した。風浪のため、肉声で言っても聞こえなかったからである。黒板には、
「残弾ナシ」
と書かれていた。
上村はその黒板をつかみ、床に叩きつけた。くやしかったのであろう。しかし上村は引っ返さざるを得なかった。
その後、ロシアの二艦はウラジオストックで廃艦同様になり、例のリューリックは沈没し、ウラジオ艦隊はこの時を以って消滅した。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ