上村艦隊は、どうにもウラジオ艦隊と遭遇できない。このため、司令長官上村彦之丞に対する投書、あるいは新聞、演説会での罵倒がいよいよはなはだしくなった。この艦隊が濃霧のために敵を見失ったと報告すると、議会ではある代議士が、 ──
濃霧々々、さかさによめば無能なり。 と、演説したりした。 このあたりが、明治の三十年代国家の面白さであろう。国民が、艦隊を追い使っているような位置にあった。租税で艦隊をつくって上村に運営させている。上村は国民の代行人であり、代行人が無能であることを国民は許さなかった。ついでながら昭和十年代の軍事国家としての日本は、軍閥が天皇の権威を借りて日本を支配し、あたかも彼らが日本人の居住地であるこの国を占領したかのような意識の匂いをもった。当然、国民は彼らの使用人になり、末期には奴隷のようになった。日露戦争当時の国家と、昭和十年代の国家とは、質まで違うようでった。 「民衆の批難攻撃はひどかった。露探
艦隊よまで言われました」 と、上村の参謀の佐藤鉄太郎はのちに回顧している。露探とはロシアのスパイという意味である。 艦隊へこういう投書も来た。 「上村艦隊は下手な鳥刺とりさし
だ。上野に鳥が出たといって新橋から駈け付けて間に合うか」 上村彦之丞は、典型的な薩摩兵児へこ
型の人間で、若い頃から喧嘩っ早く、人に負けることがなにより嫌いで、いわゆる猛将であった。この戦争での海軍のオーナーである山本権兵衛が、連合艦隊には東郷を選び、果敢な遊撃性が期待される第二艦隊には上村を選んだのは、彼の性格がこの仕事に向いていると見たからであった。それだけにこの男は辛かったであろう。 佐藤鉄太郎の回顧談に、 「対馬に艦隊が碇泊ていはく
しますと、長官はボートに乗りましてよく魚釣りに行かれました」 と、言う。司令長官が国民の面罵の中で悠々魚を釣っているところを艦隊の将士に見せて士気を衰えさせまいとしたのか、それとも自分の癇癪かんしゃく
を静めるつもりだったのかはわからない、と佐藤は言う。とにかく上村は対馬では、よく艦隊の連中に相撲をとらせたり、山登りをさせたりして、彼らのいら立ちをしずめようとした。 ──
東京湾付近へ来い。 と、大本営から言われて急航しているときも、敵艦についての未確認情報がひんぴんと出て、この艦隊を悩ました。 七月二十五日には、
「露艦隊房総半島勝浦沖ニアリ」 という電報が入ったかと思うと、翌日には大きく飛んで 「紀州潮岬しおのみさき
ニアリ」 という電報が入った。あとの電報は誤報であった。 やがて上村艦隊は伊豆七島方面を丹念に偵察したが敵はすでにおらず、空しく対馬海峡に戻った。 そういう不運の航跡を、この艦隊は曳ひ
きつづけていた。 |