〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/02/26 (木) 

黄 塵 (三十九)

真之のこの想像は、多分に神秘的である。
彼はこの時期、ウラジオ艦隊がどこをどう通るかということについて、毎日考えぬき、ある夜、ついに眠らなかった。事はその時に起こった。
ついでながら、
「秋山さんの部屋に入ると、両眼だけがこちらを向いている。物を言っても反応しないことがある」
と、言った士官があったが、真之が考えごとをしている時は、異常であった。
さらに余談ながら、真之は皆がそばで雑談していても、べつにさまたげにならないらしい。あるとき、彼は靴のままでソファに寝ころんで、講談本を読んでいた。
そばで若い士官たちが、半ば冗談で、 「今度の作戦はおれならこうするが」 などとホラを吹きあっていると、真之は急に講談本を捨てて跳ね起き、
「今の話、もういっぺん言ってみろ。どうするんだって}
と、コンパスと定規を取り寄せ、やがて愚にもつかぬホラ話を大真面目に聞き終わると、すぐさまその場でそれを理論の筋を通して大作戦を机上で出現してみせたということもあった。
が、この場合は違う。靴のままベットにひっくり返って考えているうち、疲労のために少しうとうとした。その時彼の網膜にしろじろとした空と海が開けて来て、夜が明けてほどもない海景が現れた。山波が見え、その光景はあきらかに津軽海峡に近い日本の東海岸の景色で、しかもその黒い海に三隻の軍艦が北上しているのを見たのである。ウラジオ艦隊のロシア、リューリック、グロムポイであった.彼らは津軽海峡を目指していた。
(やつらは、津軽海峡を経てウラジオストックに帰るのだ)
と、真之はこの自分の精神に現れた神秘的幻覚を信じようとした。作戦というのは理智の限りを尽くして思考しぬき、ついにぎりぎりまで煮詰めた最後の段階で天賦てんぷかん・・ に頼るしかないということを真之は知っていたし、それを絶対境地であると思い、自分がときに感ずるそういう絶対境地を彼は信じるたちであった。彼が晩年、心霊的世界に ってしまったのも、そういうことによるらしい。
が、真之はこの神秘的幻覚についてはたれにも言わなかった。言えば、東郷以下の艦隊幹部は真之の言葉を信じなくなるだろう。
彼はこの時すぐ参謀長室へ行き、津軽海峡説を理論化して説明した。
連合艦隊が、大本営命令を無視して上村艦隊に対し、津軽海峡行きの命令電信を発したのはこの時である。
が、すでに上村艦隊は、大本営命令による行動に入ってしまっていた。もしこの時真之の幻覚どおりに上村艦隊が行動しておれば、ウラジオ艦隊の始末はもっと早い時期についていたはずであった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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