ウラジオ艦隊は、活発な機動意思を持っていた。ただし、これを追う上村艦隊をたくみにかわし、つねにその視界外に身をさけつつ、日本の海上輸送をかき乱すことのみを目的とした。両者は日本列島をとりまく広大な海域で鬼ごっこをしているようなかたちになった。 「上村艦隊の武運良好ならず」 と、この第二艦隊の参謀だった佐藤鉄太郎がのちに書いている。佐藤はこの当時、真之と併称される作戦家だった。 この遊撃用の艦隊は、ウラジオ艦隊を洋上に誘い出すべく遠くウラジオ港外のアスコリド島付近にまで行ったことがあるが、おりから海面は氷結し、近づくことが出来ず、かろうじて薄氷を選んでそれを破って接近し、ウラジオ港に向かって遠距離射撃を加えたこともある。が、敵は出て来なかった。 その後、ウラジオ艦隊が朝鮮の元山を襲ったと聞いてすぐ急航したが、しかし間に合わなかった。 ウラジオ艦隊が対馬海峡にあらわれて佐渡丸と常陸丸を襲撃した時も、上村は現場付近にいなかった。日本の国内の世論はこの上村の不運に対して冷酷で、無能呼ばわりをしたり、国賊と呼ぶ者もあり、上村の留守宅に投石する者がたえなかった。 上村は懸命に捜索を続けて、七月一日の夕刻、対馬の南西海上を巡航中、二万二千メートルの沖に薄煙のあがるのを見、必死の勢いで追ったが、敵もこれに気づいて逃げ、やがて日没とともに姿を消した。 上村にとって最も悲痛だったのは、七月二十一日であった。その午後一時、大本営から電信が入り、 「ウラジオ艦隊の三艦は、伊豆半島沖を徐航し、商船を脅かしつつあり」 という旨の敵情が報らされた時であった。つづいて大本営命令として、東京湾付近へ急航して来い、という。 上村艦隊はいそぎ九州の西方を南下した。ところがこの急航中、午後八時ごろ、連合艦隊から命令が入り、 「北海道方面へ行け」 という、命令が二重になった。 連合艦隊の命令は、
「東京湾付近の警戒など捨てて、一路北海道へ行き、津軽海峡においてウラジオ艦隊の帰路を待ち伏せせよ」 というもので、二つの命令は相反していた。 大本営の命令の基礎には、ウラジオ艦隊は東京湾付近をおびやかしつつ日本の太平洋岸に沿って最後には旅順艦隊に合流するつもりだろうという想像があったが、連合艦隊の命令の基礎には別な想像があった。敵はそのまま引き揚げて津軽海峡を通ってウラジオへ帰るだろうということであった。 上村は迷い、結局は最高命令者である大本営の命令に従ったが、結果としては連合艦隊の命令の方が正しかった。このときウラジオ艦隊の行動を想像して的中させたのは秋山真之であった。 |