ところで。── 旅順にふたたび逃げ込んだ艦隊の始末について、ロシアの現地陸海軍が協議した結果、 「これらの軍艦は、軍艦として役に立つには余りにも破壊されすぎてうる」 ということで、もはや出港せず、湾内で座り込むということに決めた。 乗組員の大半は陸上勤務とし、艦体は浮かしておくだけにした。 艦砲の大半は取り外して揚陸し、要塞重砲として使うことにした。 旅順の残存艦隊が積極的な戦闘行動を断念したということについては、洋上の東郷にはわからなかった。諜報の不備によるものであった。 日露戦争における日本の諜報活動は、ヨーロッパにおいても満州の戦野においてもきわめて好調であったが、旅順だけは例外だった。旅順市街はロシア軍の厳重な管制下に置かれているため、手も足も出なかったのである。 このため、旅順残存艦隊の動静については、旅順要塞が陥るまで東郷は知らず、依然としてあの困難な。機械力と兵員の疲労を強いる封鎖作戦を口外において続けた。 むろん東郷にすれば一日も早く去って一日も早く艦隊の整備をしたかったが、乃木の第三軍が旅順を陥としてくれぬかぎり、去ることは出来なかった。この間の事情は、開戦の時から少しも変化していない。 ただ、ひとつだけ東郷にとって重要な懸念
が去った。 八月十四日の蔚山沖の海戦がそれである。 ウラジオストックを基地としているロシア艦隊は旅順艦隊の別働隊のような存在だったが、結果としては全ロシア海軍の中でも最もよく働き、もっとも多くの損害を日本海軍にでなく、陸軍に与えた。 この艦隊は、戦艦級の一等巡洋艦を三隻と二等巡洋艦一、仮装巡洋艦一で、計五隻から成っており、たえず日本海や朝鮮海峡の辺りまで出て来て、日本と満州の間を交通している輸送船を沈めた。 四月二十六日には金州丸を沈め、六月十五日には、近衛後備連隊の連隊本部とその一部隊を乗せた常陸丸ひたちまる
を砲撃して沈めてしまい、鉄道関係の工兵部隊を乗せた乗せた佐渡丸に砲雷撃を加えて大破させ、ほかに和泉丸 (三二二九トン)
のような大船から、のち太平洋にまわってからのことだが一〇〇トン内外の喜宝丸、第二北生丸、福就丸などといった小さな船にいたるまで自在に沈め、ついには豪胆にも太平洋岸でも東京湾をのぞいたり、伊豆半島をかすめたりして、日本の海上輸送路を脅かし続けていた。 これに対して日本側は上村かみむら
彦之丞の第二艦隊を捜索に当たらせていたが、海域が広いため容易に発見できず、一時は東京の大本営の空気を暗澹あんたん
とさせた。 |