下瀬はそうあらねばならぬと思い、欧米各国が使っている綿火薬とは別系列のものを入所後三年で開発した。この新火薬はピクリン酸を用い、ピクリンが鉄に接触すると敏感なピクリン酸塩を作るという性質を利用したもので、それが鋼鉄艦に撃ち込まれた時に起こるすさまじい爆発力は従来の火薬の概念をはるかに越えたものであった。 物の量から見ればこの戦争は、日本にとって勝ち目がほとんどなかったが、わずかに有利な点は下瀬火薬にかかっていたと言えるであろう。 「軍艦のある場所で炸裂すれば、甲板上に人間が上れるものではない」 とまで言われたほど、すさまじい高熱をこの爆薬
(炸薬) は出す。このため最初ロシア側は、 「日本海軍の砲弾は毒ガスを放散する」 と、世界に向かって訴えたほどであった。その例として日本の魚雷が巡洋艦パルラーダの石炭庫に命中した時、六人の水兵が消化しようとして現場に近づいたところガスにやられるようにして斃
れた、ということをあげている。むろん毒ガスではなかった。 下瀬火薬が爆発する時に発生するガスの熱が並外れて高く、三千度にものぼった。六人の水兵の不幸は、この高熱によるものであった。 ロシア側は、開国して三十数年しか経たない日本が独創による砲弾を使うはずがないと見て、 「日本軍は英国製のリダイト弾を使っている」 と、旅順の海軍部は発表している。 一方、ロシア軍の砲弾は、日本海軍の研究機関が分析して調べたところでは、爆発のごく鈍いようなものが使われていた。はじめ、日本が臆測したところでは、ロシアがかねてフランスと親密であったところから、フランスが開発したメリュットという爆薬を使っているかも知れないと見ていたが、フランスはどうやらロシアに渡さなかったようであった。さらにロシアの砲弾は信管がやや粗末で、不発弾が少なからず出た。 下瀬火薬の威力をロシア側が本格的に調査し始めたのは、黄海海戦の後の蔚山沖海戦で戦った巡洋艦
「グロムボイ」 と 「ロシア」 がウラジオストックンにやっとたどりついた時であった。両艦は沈みこそしなかったが、完全な廃艦になっていた。 「両艦ともその被害は凄惨せいさん
で、見る者をして戦慄せしめた」 と、新聞発表した。ボートは粉々に破壊され、砲身は曲がるか砕けており、舷側の弾痕だんこん
はみな人が出入りできるほどの大きさで、ロシアのごときは全艦二十門の砲のうち、使用できるものは三門しかなかった、という。 諸外国の新聞もこの火薬について報道したが、
「日本はこの火薬を最大の国家秘密にしているからよく分からないが、とにかく火薬における革命的なものである。ロシア人はその威力を、肉体体験によって学び取るという不運な境遇におかれた」
(一九〇四年七月三十一日・ニューヨーク・タイムズ) 日本陸軍もこの砲艦用の下瀬火薬を土台にあたらしい黄色薬
(ピクリン酸) を開発し、明治三十年工業化に成功した。しかし敵の鋼鉄艦に対する下瀬火薬ほどの威力はなかった。 |