〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/02/25 (水) 

黄 塵 (三十五)

シモセ・パウダーといわれる下瀬火薬が発明されたのは、明治二十一年のことで、実験を重ねた結果、海軍が採用したのは、明治二十六年のことであった。が、翌年に始まった日露戦争には使用されなかった。
「日清戦争のときはすでに下瀬火薬が出来上がっていたが、しかし機械の方がまだ不完全だったので使えなかった」
と意味のことを、明治四十四年九月四日付の報知新聞に海軍造兵総監沢鑑之丞が語っている。この猛炸薬もうさくやく を撃ち出すためには砲熕ほうこう その他の機械学的な条件が必要であったが、それが出来上がっていなかったのである。たとえば日清戦争のころまでは、砲弾にとって最も大事な着発ちゃくはつ 信管は主としてオランダ製を使っていたが、その信管では下瀬火薬に不適当であった。のち、いわゆる伊集院いじゅういん 信管が発明されることによって、下瀬火薬は実用化されることになり、日露戦争前には日本海軍のすべての砲弾、魚雷、機械水雷にこの火薬が詰められた。
発明者の下瀬雅允という人は、芸州広島藩の鉄砲方の家で、祖父は蘭書などをあさって火薬の研究をしていたという。下瀬は秋山好古とおない年の安政六年生まれだから、たがいに十歳前後で維新の瓦解に出あい、士族の没落で家が窮迫した点などではほぼ似た体験をした。
広島中学から、当時工学寮と言われていた大学に入ったのは、明治十年である。予科 (予課学) が二年で、専門課程は五年である。化学を専攻し、工学士になってから海軍省に入り、兵器製造所に勤務した。
この明治二十年当時、この製造所の製造科科長は薩摩出身の原田宗助という人物で、明治四年東郷平八郎らとともに英国に留学し、ニューカッスルにあるアームスロロング会社で造兵技術を実習した。
「優秀なる兵器なくして国家の独立なし」
というのが、この原田宗助の口ぐせでであった。この製造所のスローガンでもあったのかも知れない。製造所では、模倣もほう より発明を重んずる風があり、原田はあたらしく入所した下瀬に対し、
「わg日本国は弱国である。弱国としてなおこの帝国主義の世界に生きうる道は兵器の発明あるのみ。君は砲弾の炸裂を専門とせよ。改良よりも世界の炸薬の概念を一変させるような発明をせよ」
と、訓示した。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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