〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/02/25 (水) 

黄 塵 (三十三)

ロシア人が、十分に戦わずに自滅同然のかたちをとったのは、やはり高級指揮官になまくら貴族をいただいてしまったことにもよるであろう。艦によっては、意外な闘志を見せたのも少なくない。
芝罘チーフー に逃げ込んだのは、駆逐艦レシーテリヌイ (二四〇トン) であった。艦長コルニリエフという大尉で、
── 戦いはこれからだ。
と、配下をはげまし、石炭を仕入れてどんどん積み込んだ。この艦を追跡していたのは第一駆逐隊の朝潮と、霞で、夜陰港内を偵察したところ、ロシア艦隊がいることを知った。
日本側はこれに降伏を勧告すべく、朝潮乗組の中尉寺島宇瑳美うさみ に通訳を一人と下士卒十人をつけて短艇で向かわせた。
寺島はシーテリヌイの艦上にのぼり、コルニリエフ大尉と甲板上で交渉した。
コルニリエフはすでに逃れ難いことを知り、ひそかに部下に命じ、自爆の用意をさせ、さらに寺島と話した。コルニリエフは時間かせぎのために要領の得ぬ対応をくり返して、ついに一時間になった。ごう をにやした寺島はこの艦を捕獲しようとし、部下の機関兵曹長坂本常次をかえりみたとき、コルニリエフはそれを知り、いきなり寺島に飛びかかってその顔を打った。寺島はその腕を取って投げ飛ばそうとしたが、コルニリエフが巨体なため容易にわざ がかからない。寺島はこの大男と甲板上で戦うことの不利をさとり、とっさにコルニリエフを抱いたまま海中へ落ちた。ところが水中で二人は離れてしまった。寺島はふたたび艦へのぼろうとした。
艦上では、日露人の大乱闘が始まっていた。ロシア水兵たちは、坂元兵曹長にとびついてこれを海へ突き落とした。双方、最初は素手すで の戦いだったが、次第に銃器をとっての戦いになり、日本兵は少数ながらよく戦った。死者一、負傷者は十一人全員である。ロシア側は総員五十一人のうち三十余人が死傷した。寺島中尉が甲板上によじ登ったとき、艦体がふるえ、前部に爆発が起こった。ロシア兵は爆発を恐れてみな海へ飛び込み、陸地をさして泳いだ。爆発はそれ以上起こらなかったため、寺島はこの艦を朝潮に曳かせ、捕獲艦として港外へ出た。
「ロシア軍人は決して弱くはなかった」
と、のちに東郷は語っている。
「むしろ強兵であった。しかし日本に対して破れたおもなもと は、双方の観念の違いにあるらしい。ロシア人は戦争は人間個々がするものだとは思っておらず、陸軍なら軍隊、海軍なら軍艦がするものだと思っている。このため軍艦が破れると、もはや軍人としての自分の勤めは終わったものと思い、それ以上の奮闘をする者は、きわめて稀な例外をのぞいてはない。日本人は、軍隊が破れ軍艦が破損しても一兵にいたるまで呼吸のあるうちは闘うという心を持っていた。勝敗は両軍のこの観念の差から分かれたものらしい」
確かにそうであった。ロシア軍艦は黄海では一艦も沈まないのに、すでにみずから敗北の姿勢をとった。これが、日本側に幸いした。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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