〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/02/23 (月) 

黄 塵 (二十七)

ロシア側の最大の不幸は、この決戦の時機に、各艦がどこへ行っていいのか分からなくなったことであった。
その混乱というのは、名状しがたい。旗艦ツェザレウィッチは司令塔に死人を乗せたまま、狂ったような円運動をつづけている。二番艦レトウィザンがはじめ左転し、ついで右転した。後続する三番艦プベーダは自然その真似をし、左転し、右転した。新たに旗艦になった四番艦のペレスウェートは、くるぶね のツェザレウィッチをかわそうとして最初は右転、ついで左転、そのあと三転して西方へ航路をとった。が、先行する各艦は、この艦が新しい旗艦であることを、容易に気づかない。後続する五番艦セヴァストーポリだけが了解してつづいた。六番艦のポルターワは、新旗艦から離れすぎていた。
「何事が起こったのだ」
と、艦長のウスペンスキー大佐が、かたわらの航海長にあわただしく言った。
「よくわかりません」
航海長は、前方を凝視しながら声をふるわせた。
「しかし旗艦ツェザレウィッチが落伍したことだけは分かります」
分かるのは、当然だった。ポルターワは、狂走をやめた元旗艦ツェザレウィッチの横を通っているのである。この元旗艦は、右舷にかたむいているが、沈没をまぬがれている。カミガン大尉があらためて指揮をとろうとしたが、どこへ行くべきかに迷った。海軍は航行しながら交戦するため、敵味方の戦場ははるかに遠くなってしまっている。
膠州湾こうしゅうわん へ行こう)
と、カミガン大尉は思った。ウラジオストックとは正反対の方角だが、距離も近くであり、安全であった。膠州湾はロシアと同盟国であるドイツの租借地そしゃくち である。
結局この元旗艦は南航して膠州湾めざし、さいわい途中日本艦隊に発見されることなく翌日の夜九時、膠州湾に逃げ込んだ。もはや戦闘はおろか、これ以上の航海にも堪えられないほど破壊されていた。
しかし、ドイツ人の国民性なのか、勝者を畏敬いけい するが敗者に冷淡であった。総督ツルペルは国際法をたてにとって、
「出て行ってもらいたい」
と、露骨に要求した。つい先日まで、ドイツは旅順のロシア陸海軍に協力的で、旅順とロシア本国の軍事電報のやりとりをこの膠州湾で中継していたのである。
とても出てゆけない、とロシア側が返答すると、ドイツは中立国がこの場合とるべき当然の行動をした。艦の大砲をはずし、その他いっさいの武装を解除して戦争が終わるまでこの艦を抑留よくりゅう してしまうことであった
この元旗艦とともに駆逐艦三隻がこの湾に逃げ込んだが、同様の運命になった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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