〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/02/23 (月) 

黄 塵 (二十六)

運命的なのは、その砲弾が操舵員をたおしたことであった。
司令塔の中にいるのは死人だけであり、旗艦ツェザレウィッチは、死人に指揮されていた。そのkとを艦内のたれもが知らず、まして艦隊のたれもが知らなかった。旗艦は、波を切って進んでいた。戦闘中、後続艦は旗艦に揚がる信号以外は、旗艦の運動を凝視しつつそれに従うのである。
司令塔内の高級幹部たちは消滅したが、より遅く (と言っても数秒間生きただけだが) 死んだのは、操舵員であった。彼はその背中にちょうど庖丁ほうちょう を突き立てられたようにして砲弾の破片をうけた。彼は身を支えようとして舵にのしかかり、苦悶の余り身を左へよじった。舵が左へまわるうち、彼はそのままの姿勢で絶息した。戦艦ツェザレウィッチの巨体は、この死人の手で左へ回頭しはじめたのである。
二番目を進んでいた故障戦艦のレトウィザンの艦長シチェンスノーウィッチ大佐は、
「旗艦を見ろ」
と、航海長に言った。航海長は、ウィトゲフトが戦術的方向変回をしようとしていると判断した。
艦長もそう思った。すぐ左へ回頭した。
三番目ポベーダのザツァリョンヌイ艦長も、当然それにならった。
ところが、旗艦ツェザレウィッチの運動が奇妙であった。左へ左へ回頭し、狂奔するがようにして自分の艦隊の列の中に突っ込んで来た。四番艦はペレスウェートであった。ペレスウェートはあやうく横腹にぶち当られるところであり、艦長ホイスマン大佐はすぐさま右へ舵をとった。このためその分だけ日本艦隊に接近した。すぐ左へ直した。この艦に、ウフトムスキー少将が座乗している。
「旗艦に異変が起こっている」
と、少将は判断した。やがて死の旗艦のマストにたれが揚げたのか (あとで分かったところではカミガンという一大尉であった)
「提督ウィトゲフトは、指揮権を他にゆずれり」
という信号が上がった。
ウフトムスキー少将はこれを見て、序列により全軍の指揮は自分がとらねばならないと思った。ところが彼はこの戦闘惨烈になかで、故司令長官の方針を一変することを決意したのである。ウラジオストックへ行かずに旅順港へ引っ返すことであった。
彼は信号兵を呼び、
「われに続航せよ」
との信号を上げようとしたが、信号旗を揚げるべきマストが二本とも無かった。結局彼は将旗を司令塔の横に出し、各艦がそれを確認したものとして、西方へ変針した。
混乱はこれによっていよいよ大きくなった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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