敵艦のほとんどが、大なり小なり火災を起こしているが、沈む艦はない。全艦を沈めなければ日本側としては所期の目的を達しないのである。 日本側の射手たちは、日本海海戦の時ほどには上手くなかったにしても、それでも敵の旗艦ツェザレウィッチに命中した砲弾のうち、十二インチ砲弾だけで十五弾を数えた。それでも水線甲帯を持つ戦艦というのは、容易に沈むものではない。ただ上部構造が大小となく吹っ飛ばされ、スクラップのようになり、その破壊された構造物の間に挟まれてうごめく負傷者の悽惨さは三笠の比ではない。 十二インチ砲というのは、飛んで来るのが見えるものなのである。日本の砲弾はロシア砲弾と違い、独特の形をしていた。。ロシア水兵たちは、その異様に長い形を、
「旅行カバン」 と呼んでいた。しかもこの砲弾の爆発力は、ロシアのそれとは比べものにならない。 日本の砲弾は、下瀬雅允
という無名の海軍技師の発明したいわゆる下瀬火薬が詰められている。この当時、世界でこれほどの強力な火薬はなかった。その爆発によって生ずる気量は普通の砲火薬の二倍半であったが、実際の力はいっそう狂猛で、ほとんど三倍半であった。 しかもこれを詰めた日本の砲弾は、水に衝突しただけで炸裂した。巨大水柱が、海をわきあげさせながら、こげ茶色の煙と炎をともなってあがる光景は、異様というほかなかった。 日本の砲弾は、日清戦争の経験により、まず敵艦を沈めるよりもその戦闘力を奪うことに主眼が置かれているという、世界の海軍常識からいえば不思議なものであった。 ふつう常識では徹甲弾を用いる。ロシア側もそれを用いている。この砲弾は艦に穴をあけ、艦体を貫いて中で爆発するのだが、日本の砲弾は装甲帯を貫かぬ代わりに艦上で炸裂し、その下瀬火薬によってその辺りの艦上構造物を根こそぎに吹っ飛ばすのみか、かならず火災を起こしてしまう。艦が猛火に包まれると、大砲がもはや操作できない。敵艦を沈めるよりもその戦闘力を奪うというのが、日清戦争において巨艦の定遠、鎮遠を相手に戦って以来の日本方式なのである。敵にとって残酷なこの火薬が、兵力の少ない日本海軍にとって、物理力としては唯一の頼りであった。 戦艦六隻を擁するロシア艦隊は、この時間内ではこの火薬に追いまわされたといっていい。 司令長官のウィトゲフトは戦闘が自軍に不利に傾きつつあるのを見て、足の早い巡洋艦たちをこの地獄から解放してやろうと思い、 「巡洋艦は南方へ逃れよ」 と、信号を掲げた。これが、彼にとって最後の命令になった。 |