三笠の艦内は活況を呈し、たちまち戦闘準備を終了した。 夏で、日が長い。予測よりも早く午後五時三十分に追いつき得たから、あと二時間は日没まで戦い得る。二時間という限定時間は、敵殲滅を企図している東郷艦隊にとってきわめて短く、十分の砲戦が出来ないかも知れないが、それでもなお陽のあるうちに追いつき得たことは、東郷にとってせめてもの幸運であった。 敵艦隊の最後尾艦は、戦艦ポルターワ
(一〇九六〇トン) である。その十二インチ主砲が三笠に向かって火を噴いた時が、黄海海戦における第二回戦の始まりであった。 茶黒い発射煙がポルターワを覆い、その巨弾が三笠の左舷すれすれに落ちて水煙をあげた。 東郷艦隊は速度を落さず、敵と並進し、射ちながら進んだ。敵の先頭を押えるつもりであった。やがて彼我の先頭は七千メートルに近づいた。そのころには双方すさまじい砲戦で、海面は弾着の水煙で沸きあがり、硝煙と爆煙が海を覆い、敵味方の艦はどの艦も被弾してときに火災を起こし、また消えた。日本側としてはこの二時間の間に砲身がたとえ焼けただれても射って射って射ちまくらなければならない。 敵の射撃能力は、のちに来たバルチック艦隊とは比べものに」ならぬほどに命中度が高かった。旅順艦隊は旅順に引っ込んでいた時無為でいたわけではなく射撃訓練だけは十分に積んでいた。 三笠の被害がすさまじい。この交戦中に生じた三笠の破損箇所は、主なものだけで九十五ヶ所であった。たとえば交戦十五分後には後部の主砲である十二インch砲に敵弾が命中し、一門を破損した。兵一名が体をタテに割られるようにして戦死したほか、士官以下十八人が一挙にたおれた。負傷者の一人に、海軍少佐博恭王
という皇族がいた。 発射音と、敵弾の炸裂音が間断なく艦を覆い、空気がひきちぎれ、爆風が兵員をさらい、破片がいたるところに突き刺さった。 交戦一時間後の六時三十分ごろ、艦橋あたりに敵弾が命中したときなど、地獄というような生やさしいものではなかった。大火柱が立ったかと思うと、その辺りに肉片が飛び、臓腑が流れ、血が一面を赤く染めた。この時、東郷も島村も真之も艦橋にいた。東郷の隣に立っていた艦長の伊地知が負傷し、真之のそばにいた参謀殖田うえだ
謙吉ら士官五人、下士官十人が負傷した。 東郷は、顔色も変えずに、水平線上の敵陣を見ている。 島村参謀長は東郷の身を気づかい、 「司令塔に入りましょう」 と、何度も言った。艦橋は露天だから砲弾の破片が間断なしに飛び交うのである。司令塔ならば鋼鉄をもってよろわれている。 が、東郷はいつの海戦でも艦橋にいて司令塔に入ったことがなかった。この時も、 「司令塔は外面そと
が見にくうてなぁ」 と言ったきりであった。胆力という点では、この小柄な薩摩人は敵将のたれよりも勝っていた。 |