東郷は、追跡した。 敵のウィトゲフトにとってもこの逃走は必至だったに違いにが、東郷の追跡はさらに悲愴
だった。彼の追跡は勝者の追跡でなく追わなければ敗者に転落するのである。 さらに形態として、これほど滑稽な追跡戦もない。大兵力の側が逃げ、小兵力がそれを追っている。熊を犬が血相を変えて追っているようなものであった。熊はウラジオストックという穴倉にまでたどり着けば、あとで仲間の熊がやって来て兵力が倍増瀬するのである。逃げることが勝利への戦略であった。こういう戦いも、おそらく古来にない。 「大檣は、大丈夫か」 と、
「三笠」 の伊地知艦長は、何度も確かめ続けた。もしあの大檣が舷外に倒れかかれば三笠の速力は大いに減り、隊列は乱れ、とても敵に追いつくことは出来ない。 「あれが倒れなかったのは天佑てんゆう
としか言いようがない」 と、真之はのちに言っているが、真之はこの追跡時間中、もはや人間の力ではどうにもならぬ状況下で、彼がかつてやったことのない精神の作業をせざるを得なかった。 神仏に祈った。秋山真之というこの天才の精神をその晩年において常軌外の世界に凝固ぎょうこ
させてしまったのは、この日露戦争における精神体験によるものであった。彼は、渾身の精気をこめて天佑の到来を祈った。 むろん内心での祈念で、外形がどうこうというわけではない。 追跡のあいまに、遅れていた食事が出た。食事の時は幕僚は長官室に集まり、東郷を中心として食卓をかこむのだが、東郷が遅れてまだ席にみえなかった。たれもが礼儀上、フォークを取らなかったが、真之は頓着なしに食い始めた。 もっともたいていの場合、真之はこうであった。彼は作戦を考えつづけてもはや余事には気がまわらない人間になってしまっていた。食後、当然、雑談の習慣がある。が、真之は自分だけ食事がすむと、さっさと自室に戻って行く。自室のベッドに靴のままひっくり返って、じっと天井を見つめている。 ──
あれは特別だ。 というふうに、東郷も島村もあつかい、他の幕僚もそのように遇していた。 艦は、すさまじい勢いで波を切っている。 この追跡中、真之は上甲板から降りて幕僚室のソファにひっくり返っていた。 彼にとって敵に追いついた場合の作戦はあらゆる状況を想定したうえで幾種類も出来ていたが、しかし今は追うだけの時間である。 十五分ばかりいびきをかいて眠ったかと思うと、不意に跳ね起きてコンパスと定規を取り寄せ、思いついたことを学理的に具体化してみたりした。その様子は、まるで狂人であった。
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