〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/02/21 (土) 

黄 塵 (二十)

とにかく東郷はウィトゲフトを逃がした。
逃がしたこの直接の原因は、東郷艦隊の最期のくるりと回転したその一回転半の運動時間にあったといえるだろう。この間にウィトゲフトは逃げに逃げ、東郷が追跡に移ったときはすでに三万メートルも東郷を引き離していた。戦艦の主砲の有効射程が七千メートル前後であったから、もはや東郷にとって絶望に近い距離であった。
東郷は、追跡した。
(ここで逃がしてしまえば、日露戦争そのもにが大混乱期に入らざるを得ない)
という焦燥が、どの幕僚にもあった。敵艦隊はウラジオストックに入る。そこを基地に日本海を荒らしまわれば陸軍の輸送ルートはずたずたになり、自然海軍は陸軍の輸送につきっきりにならざるを得ず、人も艦も疲労に疲労を重ねることになり、しかも敵の本国艦隊が来た時は、二倍の敵と戦わねばならないのである。たしかに日露戦争の勝敗の分かれ目はこの黄海の追跡戦にかかっていた。
「艦隊の戦術運動のために三分遅れた」
と、戦後、秋山真之が書いている。
「そのため追っつくまで三時間かかった」
真之はそう言う。真之自身の文章で言えば、 「この三分の遅刻が、爾後じご の追及に貴重なる三時間を空費し」 ということになる。 「貴重なる」 というのは日没との追っかけっこであるという意味である。
なぜ三分遅れたかについては、この実戦に参加した人びとでさえ意見はまちまちで、のちの中将山路一善などは、現場で東郷の主力艦艇 (第一戦隊) の行動を見た時、一瞬、
「第一戦隊もまた敵の後尾にまわるのだ、そうして敵の旅順に引き返すことを断念せしめるのだ。そうにちがいない、ろ思いました」
と、後年語っている。たれの頭にもそれが先入主になっており、そう解釈した。
敵はまた六月二十三日の時のように旅順に引き返すに違いない、日本側としては、それをさせまいとして急いで運動し、退路を遮断しようとした、ということであった。
ところが真之はそう言っていない。
「午後二時、射撃のもっとも激しかったとき、第一戦隊は知らず識らず、敵の西方 (すなわち旅順方向) にまわりこんだ。ところが敵はいち早くこの機をはずさず、山東高角の方に向針した。さてこそと東郷大将はその隊首を転ぜられたが、残念、その時期がわずか三分遅れたためわが第一戦隊は敵の後方より随進追撃するの不利なる態勢となった」
知らず識らずであるのか、命令したものか、なにぶん彼我の戦闘激烈の時で、今となればよく分からないが、ともかく海軍史家ウェストコットの言うように、 「理解し得ない運動」 というのが、この戦いの様相を決定した。
このことは東郷とその幕僚のにがい経験になった。
彼らは日本海海戦のときに二度とこの失敗を繰り返すまいとし、独特の突撃形態を案出して実行することになる。東郷も真之も、後に、
「黄海海戦の教訓がなければ、日本海海戦はあれほどうまくゆかなかった」
と、おなじ言葉をそれぞれ別の場所で語っている。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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