〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/02/21 (土) 

黄 塵 (十九)

この東郷の丁字戦法によるすさまじい攻撃を、ウィトゲフトは嫌いはじめた。彼は戦闘よりも遁走の方針に戻った。このウィトゲフトの弱気が、彼自身をのちに不幸にするのだが、もしウィトゲフトがこの時東郷に対して戦いきる覚悟で行動したとすれば、別な運命が開けたはずであった。実際、東郷はこの戦争を通じ、この時ほど苦戦をしたことがなかった。
ウィトゲフトは踏み込んでくる東郷から逃れるべく旗艦の針路を左転させた。
艦隊運動の下手なロシア海軍にとって、こういう戦闘中の陣形変化ほど各艦を混乱させるものはない。陣形はたちまち波状を呈し、あちこちで艦同士がダンゴのようにくっつき、艦隊速度も大いに遅くなった。
東郷は、あざやかに艦隊を北へ変針させた。
彼はこの機を逃さぬつもりであった。敵味方の位置から見れば、ロシア艦隊の後列を進んでいた巡洋艦が、東郷艦隊のすべての砲手の眼鏡にとらえられることになった
そのロシア巡洋艦が大いにあわて、速力をあげて自軍の戦艦隊に追いつき、そのかげにかくれた。そのため隊形は不規則な二列縦陣になった。
その不規則二列縦陣のままロシア側はもはや逃げながら射つのみで、一意逃げるべく南東へ走った。この間、短い時間ながら彼我ともすさまじく砲戦し、敵の砲員も見事な腕を見せ、朝日、日進などは相当な損害を受けた。
三笠の被弾はもっとも多く、一弾は中央の水線部に命中して穴をあけた。さらに一弾は甲板を貫いて炸裂し、また一弾は後部煙突に命中し、死傷者を多数出した。
甲板は血だらけであり、肉の破片があちこちに飛び、艦橋にいた真之がふと見ると、目の前に片腕が飛んで来て、物に当って落ちて行くのが見えた。
が、東郷艦隊は依然としてまだ十分な戦闘をしていないのである。ウィトゲフトにいなされつづけているために十分な砲戦が出来ず、戦闘の大半の時間は敵ともつれたり離れたりする運動でついやされた。時間がたつばかりで、東郷は敵の一艦をすら沈めていないのである。
しかも、敵は東郷に砲戦の機会を与えず、どんどん逃げて行く。
東郷は、追った。日本艦隊は、山本権兵衛の方針によって高速を主題にしてそろえてある。が、この追跡戦では日本軍艦はどれもこれも遅かった。長期の封鎖作戦のため艦体も機関も疲労し切っていた。
ロシア艦体は、速度の点で鈍重とされている。ところがウィトゲフトの旅順艦隊はばかに早く逃げた。そのわけは彼らは旅順にいる時に十分艦を整備し、艦底のカキガラなど潜水夫を入れてガリガリ削り落とした上で出港して来ていた。
最初の発見から三時間目の午後三時二十分、もはや東郷の砲弾も及ばぬ遠くへウィトゲフトは去ってしまった。東郷は艦隊に射撃中止の命令を出し、出来る限りの高速で敵を追い始めた。
「夜までに追っつかねば」
ということが、たれの意識をも占領した。夜になればこの当時の軍艦は何も出来なかった。砲戦も出来ず、敵艦の所在もわからなくなるのである

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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