〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/02/21 (土) 

黄 塵 (十八)

東郷は、ウィトゲフトの艦隊の先頭を押えてしまおうと思い、さらに東北に変針し、各艦、白波を蹴立てて猛進しはじめた。
じつに目まぐるしい変針の連続である。真之の特性である機敏さがもっとも悪く出てしまっているよいっていいのであろう。
── 先頭を押えられてはかなわに。
と、ウィトゲフトは思い、にわかに右転し、南下しはじめた。これによって東郷の艦隊は先へ行ってしまっているかたちになる。ウィトゲフトはその東郷の背後でくるりと変針し南下し逃走しようとしたかたちになる。さらに例をたとえて言えば、東郷という剣客が大上段からふりかぶって突進し、敵と駈けぬけざま一太刀だけふるい、いきおいのまま北へ去る、敵はそのままさっさと試合場を捨てて南へ逃げ出すようなものである。
「ウィトゲフトの肩すかし」
と呼んで真之が生涯この瞬間をにがい記憶としたのも無理はなかった。艦隊はひとたび去れば容易に追っつけないのである。
行き過ぎた東郷は、ふたたび変針せねばならない。右十六点の一斉回頭をした。東郷のアクロバットというようなものであった。今度は三笠が先頭になった。単従陣である。速力をあげて南西へ航走した。どの艦も、白波が艦首高く霧のようにあがった。
今度は敵の陣列をさえぎって、不正確ながらも、
「丁字」
のかたちになった。この陣形は味方にとっても大きな損害をよぶが、敵の先頭艦を沈める上ではもっとも効果的な戦法であり、これはかつて真之が友人の小笠原長生から日本の古水軍の戦法書を借り、それからヒントを得て考え出したものであった。
敵との距離は、六千ないし八千メートルである。東郷艦隊の全主力艦は、敵の先頭艦である旗艦ツェザレヴィッチ一隻に砲弾を集中した。敵の旗艦を沈めて敵の指揮を大混乱におとし入れるというのが、日本の古水軍の戦法であった。それには敵に対して丁字形をとらねばならない。以後これが日本海軍の独自の戦法になる。
砲弾はつぎつぎツェザレウィッチに命中したが、この当時の水線甲帯をほどこされた戦艦というものは砲弾ぐらいでは容易に沈まない。
当然、敵のほうも照準を三笠につけた。三笠が受けた被害のすさまじさは、言語に絶した。艦内は間断なく敵弾が炸裂さくれつ し、とくに敵の十二インチの巨弾が、三笠の後部シェルターデッキに命中して多数の兵員をたおしたでけでなく、大檣たいじょう に大穴をあけた。このためマストのまわりの三分の二がはじけて穴になり、キコリのおの が入った大木のように今にも倒れそうであった。
「速度を出しすぎると倒れるかも知れません」
と、艦橋に報告があった。
このため、三笠はこの におよんで速度を出すことをひかえねばならず、このため再び敵に迫って第二回戦を演ずるチャンスが遅くなった。 

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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