〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/02/21 (土) 

黄 塵 (十七)

東郷とその頭脳たちは、ひとつには長い封鎖作戦で疲れ切っていたのであろう。ごく単純な敵の意図を誤算した。
「敵は、突っかかって来るだろう」
と、真之は沖の艦隊の煙を見つつ、回頭してゆく三笠の艦橋のはしからはしへゆっくりと移動した。敵の戦意を信じて疑わなかった。なにしろ敵は大勢であり、日本側より主砲が七門も多い。しゃにむに突っこんでくれば東郷とその艦隊を海底へ叩き込むことが十分に可能なのである。軍人として敵の心を推量すれば、敵の旅順出港の意図が、出撃であると思うのは当然であった。
が、敵の司令官ウィトゲフトは、戦士というよりも官僚であった。帝政ロシアの末期はその特徴として官僚がもっとも官僚的になっていた時期だが、その毒害が、能動的であるべき軍人の体質にまでしみこんでいた。ウィトゲフトは、敵をつぶすことよりも、ロシア皇帝のこの貴重な艦隊を保全し、それによって勲章を得ようとした。たまたま彼は皇帝から、
──ウラジオストックへ行け。
という勅命を得た。皇帝は当然、途中で日本艦隊と遭遇してこれを撃滅することを期待したかもしれないが、ウィトゲフトの官僚感覚では、命令を字義の通りに解釈する方がより無難であった。
「ともかくウラジヲストックへ」
というのが、ウィトゲフトの不動の方針である以上、途中、このように水平線上に出現した日本艦隊を見ても、このまま逃げ切ることしか考えなかった。
東郷は、北方から横陣で南下している。当然、ウィトゲフトは戦闘隊形をととのえて東郷に立ち向かうべきところだが、
(おかしい)
と、真之は思ったのは敵は東郷の相手にならず、依然としてまっすぐ南東へ針路をとりどんどん進んでいる。東郷は敵の隊首をさえぎろうとし、もう一度くるりと左八点に一斉回頭し、逆番号単従陣にかわった。殿艦の日進が先頭になった。
「日本人の艦隊運動のうまさは、英国海軍よりすぐれているかもしれない」
と、旗艦ツェザレウィッチの艦橋でウィトゲフトは感心した。しかし皮肉に言えば東郷艦隊は敵のはるか前方で角兵衛獅子を踊っているようなものであった。
このとき、東郷はウィトゲフトを発見してから四十分後である。ウィトゲフトは南東に進み、東郷は東北東に進んでいる。彼我の距離は砲戦にはまだ遠いが、各艦ばらばらに遠距離射撃を試みた。
ウィトゲフトは、逃げ切るつもりで艦隊速度を最高にまであげている。東郷とその幕僚はまだ敵がウラジオストックへ行くとは思っておらず、ともかくも敵を六月二十三日の時のように旅順へ引っ返させてはならないと思う一心であった。以後くり返してゆくふらふらの艦艇運動も、ただ一つその点にこだわりがあってのことであった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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