東郷がじかに率いて来たのは、四隻の戦艦である。これに春日、日進の一等巡洋艦を、すでに失った初瀬、八島の代用として臨時に主力艦隊に加えているが、砲戦となれば弱い。 砲戦で敵の主力艦の死命を制するのは、戦艦の主砲であった。十二インチ砲と十インチ砲の数は、ロシアの旅順艦隊が戦艦六隻で二十四門もある。 日本は六隻の十七門である。 「とても勝ち目はない」 と真之が思った主な理由は、このことであった。単位時間内で敵へ注ぎ込む巨弾の量が、戦闘の勝敗を決めるものであり、ここまで火力の差がついていれば、ちまちまと作戦で利をかせぐなど、不可能に近い。 しかも、東郷に課せられた使命は、 「殲滅
」 にあった。一隻でも残すとそれがこの広い海域に出没して日本陸軍の輸送に大脅威を与えることになる。ぜんぶ沈めねばならないというこの過重な課題が、結局この海戦の作戦指揮に大きな心理的錯誤をもたらすことになった。 この日、天は晴れている。 風は微弱な南風で、波はほとんどない。あわい靄もや
が、海面にこめているが視界は良好で、海戦には絶好の日和ひより
であった。 東郷の艦隊は、三笠、朝日、富士、敷島、春日、日進の順であった。単従陣で進んでいる。 午後零時三十分、 「遇岩」 と海軍が呼んでいる岩礁から西北約十海里の地点に、敵の旅順艦隊が南東に航下しているのを見た。 「外洋に誘いましょう」 と、真之が言ったのが、失敗だった。参謀長島村速雄もうなずき、東郷もうなずいた。 なぜならば以前、六月二十三日に旅順艦隊が出動したとき、警報とともに東郷艦隊はすぐ出撃し、南下中の旅順艦隊をとらえたが、しかし砲戦が始まる前に敵はにわかに北方へ反転し、ふたたび旅順口内へもぐり込んでしまった。このいわば長蛇ちょうだ
を逸したうらみが、東郷とその幕僚の思考をすみずみまで支配していた。 ── 旅順へ帰れっこない場所まで誘い出す。 ということであった。そこで十分な戦闘を遂げた後、全滅させる以外に東郷艦隊には休息はない。くどく言うが、一艦でも旅順へ逃げ込ませれば、東郷は艦隊を挙げて封鎖を続行せねばならず、待望の佐世保帰りが出来ない。内地のドックで軍艦を十分に手入れして欧州からまわって来る大艦隊を待ち受けるというその予定表以外に勝利の道がなかった。この焦燥が、真之たちの思考力から柔軟さを奪ったのであろう。 午後一時、東郷は全艦隊に対し、左八点の一斉回頭を命令した。 横陣になった。 「四時間にわたる不可解な艦隊運動のくりかえし」 と、のちにウェストコットという英国海軍の海軍史家から酷評されたふらふら運動がこの時から始まるのである。
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