〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/02/20 (金) 

黄 塵 (十五)

旅順艦隊の大挙出動については、口外を見張っている駆逐艦白雲がまず発見し、第三戦隊に報せ、第三戦隊出羽司令官から 「敵艦隊港外へ出づ」 という警電を三笠に発した。
このとき東郷の旗艦三笠とその艦隊はさいわい裏長山列島の基地に碇泊しておらず、円島北方の洋上を遊弋ゆうよく 中であった。
秋山真之は、下甲板の自室にいた。
ついでながら、真之はこれよりすこし前逸話がある。
深夜、旅順口外の哨戒中の水雷艇から、
「今夜、港内に煤煙ばいえん 高く上がり、敵艦隊出動のきざしあり」
と、裏長山列島に碇泊中の旗艦三笠に警報を打電してきた・
この夜の当直将校はこの電報をつかんで下甲板の真之の部屋へ行き、ドアをひらいた。真之はイスにもたれている。
上衣をとっていた。よく見るとイスにもたれたまま眠っていた。当直将校は真之の耳もとで警報が入った旨をどなると、真之は体を動かさず、まぶただけをひらいた。
当直将校は、電報を読み上げた。読み終わったとき真之は即座に、
「全軍ただちに出動用意。台北丸に信号、中央防材をひらき、その両端に松明たいまつ を点ぜよ。右、長官および参謀長に届け、ただちに発令せよ」
と言い、そのあと当直将校が驚いたことに真之は目をつぶりふたたび熟睡に入ったのである。
(これでいいのだろうか)
と、この当直将校は自分がメモした真之の命令案をちょっとながめてみたが、ともかく東郷と島村のもとへ届けた。
ところが、東郷も、島村も真之を信頼しきっていたため、この案に少しの疑いもはさまず、
「それでよい」
と、うなずいた。
そういうことがあったが、この八月十日の警報のときは、真之は眠っていなかった。
艦橋にいた。
「長官」
真之は東郷に海図を示し、
「この航路を進みます」
と、承諾を得た。
すでに足の早い巡洋艦の戦隊に命じ、敵艦隊に接触せしむべくいちはやく出動させている。
艦隊は、白波を蹴って進みはじめた。
── 勝てるか。
ということについて、真之はこの時ほど確信が持てなかったことはない。初瀬、八島の喪失そうしつ のために敵艦隊よりうんと劣勢になっているだけでなく、各艦とも絶え間ない出動のため機関や艦体の手入れが出来なく、そのため十分な速力が出ない。速力と艦隊運動の巧妙さが強味の日本艦隊としては、それが十分に生かされないおそれがあった。
真之は、この日のために智恵をしぼりぬいていくつかの案を用意していたが、しかし決め手になるものがない。
「どう考えてもわが方に勝ち目があるはずがなかった」
と、真之は晩年、つねに述懐していた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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