陸軍の戦いは、どうも計画通りには進んでいない。 初動期の計画では大山が剣山に登って辺りを観察しているこの時期には、すでに第一目標である遼陽会戦が行われていなければならなかったが、しかしその大会戦をするための補給が計画通りに進まず、会戦はどうやら八月を越えそうであった。 日本人の計画感覚の中に、補給という感覚が欠如しているのかも知れなかった。遼陽大会戦のためのほゆうどころか、現状において兵隊の食糧さえ欠乏していた。第一騎兵旅団秋山好古が所属する第二軍全体が、六月中、一週間ばかり、全軍がめしの量を半分にするというみじめさだった。なにぶん戦闘行動中である、この不手際はどうしようもない。 好古の騎兵たちも、めだって運動能力がにぶくなった。彼はこの時期、 「あし
には酒があるけん、めしなど要らん」 と、めしを遠慮して手持ちのブランデーを飲み、ブランデーがなくなると、シナ酒を飲んだ。 補給は、兵站へいたん
の仕事である。食料が大連湾に陸揚げされても、それを前線へ運ぶ方法があらかじめ研究されていなかった。 鉄道はあっても、機関車がなかった。ただロシア軍が遺棄した貨車が3百輛ばかりあったため、これに物資を積み、兵隊が貨車の前後をかためて人力で押した。さらにシナの駄馬を使った。岸本という獣医部長が荘河付近から買い集めて来たシナ馬が六百頭ほどあり、これにシナ風の荷駄鞍にだぐら
をつけて米俵などを背負わせた。こういう臨時の輸送部隊を 「駄馬縦列」 と呼んだが、シナ馬は背が弱いためにほとんどの馬が鞍傷あんしょう
をおこし、結局はあまり役に立たなかった。このため、前線はいよいよ餓えた。 一方、大孤山だいこざん
の軍政官である牧野という少佐がいたが、この人物はシナ馬車に目をつけた。 牧野はシナ馬車を大量に買い集め、これを 「車輛縦隊」 と呼んだ。この方法は、わりあい効果があった。 そんな状況の中で、第二軍は六月二十一日に熊岳城ゆうがくじょう
を占領し、ここで半月食糧待ちをし、七月九日には蓋平がいへい
を占領した。第一軍は鳳凰ほうおう
城を拠点としつつ靉陽辺門あいようへんもん
、遼陽街道の北分水嶺などをとり、来るべき遼陽戦にそなえる準備をととのえつつあった。 それが、大山と児玉が大連に上陸した前後の戦況である。 好古はこの時期、まだ敵地である大石橋だいせっきょう
、営口方面にしきりに斥候を出しては敵情捜索につとめていた。ときどき旅団本部に大量の砲弾が落下した。彼は砲声を聞くと、かならず酒ビンを取り出した。 「飲まんと、やりきれん」 と、これほど豪胆な男が、そういう正直なことを言った。ウィスィーのビンをラッパ飲みしていることもあった。 肴さかな
は、この人物にとってはあまり必要ではないらしい。ときどき前線を見まわっているとき、馬上、砲煙の中で、ポケットから沢庵たくあん
の切れはしを出してきては齧かじ
っていることもあった。 |