大山と児玉は、出来るだけ海軍の要望に添
うべくつとめましょうと返答し、やがて安芸丸に移った。船は、大連に向かった。 「まったくのところ」 と、児玉は大山の船室で、言った。 「旅順だけは手抜かりでした」 と正直に告白した。 対露作戦については、代々の参謀本部次長が案をまとめてきた。すでに死んだ川上操六にも案があったし、開戦前に死んだ田村怡与造いよぞう
にも緻密ちみつ な案があった。児玉は次長に就任早々田村案を書類庫から出させ、それを参考にしつつ児玉案を立てたが、川上、田村、児玉とも、 「旅順攻略」 というものは作戦案のどの章にも入れていない。もっとも川上時代は旅順は要塞というほどのものではなかった。田村時代も、ロシアが旅順要塞を本格的なヨーロッパ式の大要塞に仕立てあげているという情報を殆ど持っていなかった。それだけではなかった。近代要塞とはどういうものかという認識すら日本陸軍そのものに欠けていた。 またたとえその認識があったとしても、児玉の満州決戦についての作戦計画では、 「旅順などは、まあ番外のもので」 と、彼自身が言うように、それを無視しても十分にやってゆけるものであった。 旅順要塞は、遼東半島の先の方の金州半島のまだその戦端にある。 児玉はその先端にはさわらず、旅順北方の南山付近を占領し
(すでに占領した) その南山付近に強力な防御線を構築して旅順を封じ込めてしまってから主力は満州平野へ北上して行く。つまり金州半島を小指とすれば、小指の関節の辺りを糸でしばることによって血行を止め、旅順を腐らせる。 そういう作戦で、あくまでも陸軍作戦の指向は、満州平野であり、地名で言えば遼陽を制し、奉天を制することであった。そのために、ロシアに比べればなけなしの陸軍兵力を区分した。 ところが、今、海軍の要請によって新たに旅順要塞の攻略をしなければならなくなった。海軍の要請ではあるが、大きく見れば満州における日本陸軍の安全のための作戦であり、これだけはやらねばならなかった。 そこで、第一師団、第九師団、第十一師団の三個師団をもって第三軍というものを新設したのである。もし旅順というものさえなければ、この三個師団は遼陽決戦に使えるところであり、児玉としては惜しかった。 「まあたいした時間はかかりますまい」 と、児玉は言った。その程度にしか、児玉といえども旅順要塞を認識していなかった。 要塞が陥ちれば早々にこの兵力を、満州平野での決戦用に使うつもりであった。日清戦争では一日で旅順のドイツ人技師の設計によるシナ式要塞がおちたが、今度は五日かせいぜい十日ぐらいで陥ちるであろう、と思っていた。 七月十五日、安芸丸は、すでに日本軍の占領下にある大連港に入り、一行は上陸した。 |