〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/02/16 (月) 

黄 塵 (五)

── 旅順というものについて、陸軍の感覚は鈍すぎる。
というのが、真之が常に感じてきたところで、つねに艦隊参謀長の島村速雄はやお にもそのことを言いつづけてきた。
敵の旅順港内に、世界有数の大艦隊が潜伏しているというこの恐るべき事実を、陸軍の方は知識としては分かっていても、感覚上の激痛としてはあまり感じていないらしい。もしこの大艦隊が自由に海上にのさばり出れば、日本は海上補給を断たれ、満州に上陸した陸軍は孤軍と化し、敵の襲来を待たずして立ち枯れてしまうのは当然であった。
連合艦隊はその旅順の口をふさいで敵が出て来ないように封鎖している。封鎖というのはやる側にとっては辛い仕事であった。艦隊の兵員にとってこの期間休息がなく、疲労が重なってゆくばかりか、軍艦にとってもよりいっそうにそうであった。艦底にカキがつき、汽罐に老廃物がたまり、出力も速威力も落ちて行ってしかもドック入りが出来ない。もしこの封鎖が際限もなく続けば、やがて欧州から回航されて来る敵の本国艦隊と決戦する時、日本艦隊は固有のスピードが出ず、そのことによって負けるかも知れない。
「敵の艦隊が出て来れば別です。それを洋上でたたいて全滅させてしまうわけで、それでいいのですが、敵もそれを知っていてなかなか出て来ない」
と、真之は、この三笠艦上での陸海軍首脳会議で説明した。
「敵も利口です。本国艦隊の回航されて来るのを港内にひっこんで待っている。敵としてはもしそのときまで待てば日本艦隊に対して二倍の力になる。そこで日本艦隊をたたき沈めて日本海の制海権を確立し、満州における日本軍を孤立させようとしている」
「そうなれば大変だ」
児玉源太郎は、大声をあげた。そうなれば日本は日露戦争そのものを失うだろう。
「要塞化された軍港内にいる敵艦隊を外洋から攻めてゆくというのは、これは不可能に近い。どうしても外洋へ追い出さなければならない。その追い出す方法は、陸から追い出すしか仕方がないようです。陸軍を以って要塞を攻め、それを陥落させてしまえば、港内にいる艦隊は出てゆかざるを得ません」
このことは、海軍としては前線の希望として東京の陸軍軍令部を通して陸軍参謀本部にすでに申し入れてある。
「旅順を攻めるのか」
と、最初は陸軍参謀本部はためらった。しかし海軍のやかましい要求に屈し、遅ればせながらも旅順攻略用の軍団としてあらたに第三軍を創設し、乃木 希典を司令官とし、つい最近、それを遼東半島に送った。しかしまだ本格的な攻略は始まっていない。
この三笠での艦上会議は、そのことに終始した。
「出来るだけ早くおとしてもらいたい」
というのが、海軍の希望であった。海軍としては旅順を早く片づけて全艦隊を佐世保に入れ、軍艦の修理をしなければ、このままではみなボロ船になってしまう。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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