〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/02/15 (日) 

黄 塵 (三)

大山巌は満州軍総司令官に親補せられるとそのあとすぐ海軍省へ行き、大臣室を訪ねた。
「山本サン、報告に参りました」
と、この職についた旨を権兵衛に告げた。権兵衛はこの件についてあらかじめ聞いていたから、驚かなかったが、
「しかし惜しい人事ですな」
と、率直に言ったことは、あなたは東京にいるべきだ、出先は野津 (道貫みちつら ・第四軍司令官) を昇格させて任せておけば、ということであった。
「そりゃ、野津の方がいいでしょう」
と、大山は率直に言った。大将野津道貫が戦争にかけては名人であるということは、おなじ薩摩人の大山は知りすぎるほど知っている。
「しかし軍司令官はみな豪傑でごわして」
と大山は言う。第一軍は黒木ためもと 、第二軍は憶保鞏やすかた 、第軍は乃木 希典まれすけ 、第四軍は野津道貫で、ことごとく幕末の風雲期に活動し、以来明治日本が経たあらゆる戦火をくぐって来た連中で、しかもそれぉれが同輩というに近い。野津が総司令になると、それぞれが を張って時におさまりのつかぬことになるかもしれない。
── だから自分が出ざるを得ない。
と、大山は言う。大山はこの日、宮中で明治帝に拝謁した。明治帝は、 「山県もいいのだが、しかしするどすぎて、細かいことまで口出しするので諸将がよろこばぬようだ、そこへゆくとお前ならうるさくなくていい、ということで、まあそういう次第でお前に決まった」 と帝は当の大山に人事の事情まで話した。大山は笑い出し、
── すると、この大山はボンヤリしているから総司令官にちょうどよい、というわけでございますか。
というと、帝も笑って、まあそんなところだろう、と言った。大山はその宮中でのことを山本権兵衛に話し、一笑してから、
「要するに、ボンヤリを見込まれて出て行くわけですから、いくさのこまかいことはすべて児玉サンにまかせます。しかし負けいくさになったばあいは、自分が陣頭に進み出て、じかに指揮をとります」
と言い、そこで出陣にあたり、頼みがあった来た、と言った。
「軍配の時機じお を頼み申すぞ」
ということであった。軍配のシオというのは、講和の時機という意味である。かねて大山は山本権兵衛とともにそのことばかりを語り、戦争の終末点をにがさずに第三国に頼んで講和へ持ち込む、という方針をもってこの戦争をはじめたのだが、自分がこのように戦争に行ってしまえばあなたにそれを一手でやってもらわねばならない、そのことよろしく頼む、ということであった。山本は、
「心得た」
と、言い、手ずから土びんをとって、茶を入れた。大山は茶碗をとりあげると、薬湯でも飲むようにズーッと一気に飲み干し、やがてアイガトウゴワシタと一礼した。妙な人物であった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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