遼陽の大会戦が、迫っている。 会戦というのはほぼ予定された戦場において、両軍それぞれが出来るだけ多くの人数と火力を集中し、ほぼ想像のつく期日を期して大衝突を行い、それによって戦いそのものの運命を決する戦争形式の事で、そういう意味では、この来るべき遼陽会戦は世界史上もっとも大規模な例の一つになるであろう。 そのためには、日本としては現地に、 「高等司令部」 を置かなければならない。その司令部を実際に運営する者として、大本営参謀本部次長である陸軍大将児玉源太郎がそれに当てることは規定のことになっている。児玉以外に日露戦争の陸軍作戦を統裁してゆける頭脳がないということについては、たれも異存を持つ者がない。 要は、総大将の人選である。これについて元帥山県有朋
が、 「ぜひ、わしが」 と、自薦じせん
したことで、多少のもつれがあった。山県という人物には、男子と生まれたからには一国をこぞる軍勢を率いて国家の浮沈をかけた決戦をしたいという子供じみた壮気、もしくは詩的妄想のようなものが生涯つきまとっている。 山県の戦闘経験というのは、長州奇兵隊のころのもので、その後彼の軍歴は、主として軍政面において終始している。生来の権力政治家であるこの人物はその方面でこそ大いに腕をふるい、事実明治初期の建設期からこの時期にいたるまで、陸軍の最長老でありつづけてきた。しかし人間としては独特の臭気がつよく、有能な部下に十分能力をふるわせるほどの雅量もない。 「山県のじいさんの下ではどうにもならん」 と、児玉源太郎が言い出し、児玉は首相の桂や陸相の寺内などに働きかけた。山県も児玉も長州であり、桂も寺内も長州人である。 児玉は、山県とのあいだの仲は莫逆ばくぎゃく
といっていいほどによかったが、しかし個癖のつよい山県を頭かしら
にいただいて戦争が出来るとはとても思えない。山県はいちいち作戦に口出しし、ついに児玉は、敵に対する配慮よりも山県に対する配慮でふらふらにならざるを得ないであろう。 児玉には最初から意中の人があった。大山巌であった。大山はいかにも薩摩型の将領で大将になる為に生まれて来たような大雅量をもっている。 児玉は、それを運動した。 が、首相の桂も陸相の寺内も、陸軍の元老である山県に遠慮した。 結局は、明治帝にすがってその直命を得ようとした。この帝はどちらかといえば山県を好まず、大山野茫洋としたところをかねて好んでいたから、帝みずからすすんでこの人事を裁断した。 大山に、決まった。
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