〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/02/13 (金) 

マ カ ロ フ (十四)

運とか運勢とかいうこの不思議なものについての信仰が、古来絶えない。
あるいはそれが存在するかも知れないということを、交戦中の日本海軍の所属員のすべてに思わせた不幸が、この五月十五日をはさんで六日間の間に連続した。
ことごとく、触雷事故と、味方同士の衝突事故による軍艦喪失である。
五月十二日には、水雷艇第四十八号艇が機雷に触れて吹っ飛ばされ、つづいて同十四日には通報艦宮古が触雷沈没した。
さらに戦艦初瀬と八島を相前後して失った同十五日には、べつな水域で二等巡洋艦吉野 (四一五〇トン) と新造の一等巡洋艦春日が闇夜の海で衝突した。このとき、春日の艦首の水面下につき出ている衝角が吉野の腹を突き破ったため、吉野はまたたくまに傾き、乗組員が退去する間もなく海没した。艦長以下三百十九人が戦死。吉野は日露戦争の日本海軍の水準ではすでに大部屋役者にすぎなかったが、十年前の日清戦争の段階では快速艦として海戦の主役の働きをした艦であった。
さらにこの日、通報艦竜田 (八六四トン) が光緑島の南東岸で擱座かくざ し、翌十六日には砲艦大島が同赤城と衝突して沈没した。さらに十七日には老鉄山沖で戦闘行動中の駆逐艦暁 (三六三トン) が触雷で沈没し、艦長以下二十三名が死亡した。
「逆立った甲板から、人間が滝のように流れ落ちた」
と、のちに戦艦初瀬の沈没を語ったのは戦艦敷島の寺垣大佐であったが、それまで無傷であった東郷艦隊に惨事がこのわずか六日間にむらがって起こったのはどういうことであったのであろう。
いずれにせよ、敵の放火を受けることなしに日本艦隊は八隻を失った。
とくに、海上決戦において圧倒的に主力になる戦艦を二隻まで失ったのは、戦いの前途を暗くした。敵の旅順艦隊の戦艦六席に対し、日本側はこの日まで均衡いていたのが、一日で四隻編制に下落したのである。三三パーセントの減であった。戦艦を新造するには、政治的操作を含めれば十年かかるとみていい。
(今後、この戦争を、どう戦うのか)
と、大損傷を受けた現場での艦長たちは呆然とする思いであった。
東郷とその 「三笠」 は、このとき大連湾を北東へ去る三十海里の裏長山列島の臨時基地にいた。悲報はつぎつぎ三笠の無電室に入り、とくに初瀬と八島が沈没したことを知ったときは、さすがに剛腹な参謀長島村速雄も声をのみ、真之は顔が凍結したようにしばらくまばたきもしなかった。海軍作戦は、きわめて困難な課題になった。
が、東郷だけはふしぎな男で、顔色も変えなかった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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