東郷はこの戦争の全海戦を通じ、きわめて幸運な男とされていたが、彼の驚嘆すべきところは、不運に対して強靭
な精神を持っているということであった。 二戦艦を失って、敗残・・
の艦長たちが旅順口から戻って来て三笠にそれを報告すべく訪ねたとき、彼らはみな東郷の顔を見ることが出来ず、みな声をあげてこの悲運に泣いた。 このときも、東郷は平然としていた。 「みな、ご苦労だった」 と、それだけを言って、卓上の菓子皿を艦長たちの方に押しやり、食べることをすすめた。 東郷のこの時の態度は、戦艦朝日に乗っていた英国の観戦武官たちも驚嘆したという話が、さまざまなかたちで諸外国に報ぜられた。 (おれが、このひとなら、このようにゆくだろうか) と、東郷の頭脳を担当する真之はつくづく思った。東郷は頭脳ではなく、心でこの艦隊を統御しているようであった。頭脳を担当する真之がもし東郷の位置なら、あるいは激昂するか、悲憤するか、強がりをいうか、どちらかであったかも知れなかった。 東郷は終生賢、自分の賢愚をさえ外にあらわしたことがないというふしぎな人物であった。東郷は賢将かということについては、彼の辞令が公表されたとき、連合艦隊の基地佐世保でも話題になった。ほとんどの士官が東郷を無能ではなくとも、凡将であると思っていた。 真之の兵学校以来の親友である森山慶三郎は、東郷の名前を佐世保で聞いたとき、 「東郷さんといえばその存在さえ現場の士官たちの間ではおぼろげで、まして能力がわからない。われわれ士官仲間では、そろそろいくさが始まるというのに、こんな薄ぼけた長官が来ちゃ海軍もだめだ、おそらく薩摩人だからその選抜をうけたのだろう、何にしても困ったものだ、と評判した」 と、後年、ある座談会で語っている。 東郷が汽車で佐世保へ着くというので、森山慶三郎少佐は、少将梨羽時起、それに三笠の艦長伊地知いじち
彦次郎大佐のたった三人で迎えに行った。 「本来なら艦隊の兵員が整列し、軍楽隊の吹奏入りで迎えるべきところかも知れないが、じつにさびしい出迎えであった。この時初めて私は東郷さんを見たのだが」 おt、森山は言う。 小柄な爺さんというだけの感じで、とても大艦隊の総大将ろいう威容はない。 「停車場の前が埋立地になっていて、地面がでこぼこし、水溜りもある。東郷さんはその埋立地をヨボヨボ下を向いて歩くのだから、いよいよこの人はだめだと思った」 しかし東郷が艦隊に着任してしばらくするとその人格的威力が水兵のはしばしまで浸みとおって、なにやらふしぎな人だと思うようになった、と森山は語っている。 |