日本側の重大な過失は、自分が敵に対して仕掛けた機雷戦術のワナを、敵もまた仕掛けるであろうという、この単純なことを想像することが出来なかったことであった。 参謀長の島村速雄にも、先任参謀の秋山真之にもこれについての不安がなかった。 ただ、つねに、旅順口外で哨戒勤務についている駆逐艦や砲艦の艦長たちがみかさへやって来て、 「いつまでも艦隊主力が旅順の外洋で一定の航路をとっていると、敵もばかじゃありませんぞ、いずれはこっちのやったことを敵もやるにちがいありません」 と、航跡変更をやかましく主張したことがあった。 「しかしロシアは、領海外の公海に機雷を沈めるだけの度胸があるだろうか」 と、言った参謀がある。公海には交戦国以外の船舶が通過している。そこに機雷を沈めてもしそいういう船舶を沈めてしまえば、国際的な批難がごうごうと起こるであろう。 が、いずれにしても航路は変更するに越したことがない。 真之はその新航路を研究し、海図上に線をひき、島村速雄の許可を得た。しかしこれだけの大艦隊が、各隊有機的にさまざまな運動をくり返しているときに、急にその航路変更は出来ないから、 「五月十五日までは旧航路」 ということにした。ところが皮肉なことにこの日露戦争通じての最大の不幸は、このごりぎりの五月十五日に起こるのである。 それより前、 ──
敵の砲艦が夜陰、しきりに外洋に出ている。作業内容はわからない。 という情報があり、三笠の作戦室ではひょとすれば機雷沈置かもしれないと判断し、中将片岡七朗の率いる第三艦隊にその掃海作業を命じることにした。 第三艦隊がその作業を始めたのは、五月十二日の午前七時からである。 なにしろ敵の要塞砲の着弾下で作業することの困難さは言語に絶した。まず第三艦隊のうち、その主力が作業艇の援護の役をする。ちなみに第三艦隊主力は日清戦争の老朽艦をもって組織されており、二等巡洋艦厳島が旗艦で、鎮遠、橋立、松島の四隻である。それらが、洋上から旅順要塞に威嚇射撃をおこないつつ、そのもとで水雷艇群が掃海のために働く。 ところがこの日の午後四時ごろ、水雷艇第四十八号艇が作業中、突如大爆発を起こし、真っ二つに割れた。死傷十四人である。 翌々日の十四日、通報艦宮古
(一七七二トン) が、二十ノットという高い運動性を利用して掃海水域を駆け回り、敵情偵察やら陸上への砲撃やらに任じたが、午後四時三十分触雷し、二十分後に沈没した。戦死二人、戦傷三人であった。 この十二日から十五日までの掃海作業で十五個の機械魚雷をつぶすことが出来、日本側はやや安堵した。ただし日本側はロシア側が総計五十個という大きな数を沈めていることにむろん気づかない。
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