〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/02/12 (木) 

マ カ ロ フ (十一)

このマカロフとその乗艦の触雷から一ヶ月のち、同じ悲劇が東郷艦隊をおそった。
一日のうち戦艦二隻を失うという事態が発生したが、この方がロシア側が受けた損害よりもはるかに大きかったかも知れない。
マカロフが戦死してから、旅順艦隊は以前のように出撃して来なくなり、その士気も火が掻き消えたようにおとろえたが、しかし艦隊の将士すべてが勤務に不忠実になったわけではなかった。
たとえば水雷敷設艦アムールの艦長イワノフ中佐は、マカロフ時代と同じようにつねに港口まで顔を出して外洋の日本艦隊の動静を警戒していたが、日本艦隊には一定の運動習性があることを発見した。
(これを研究してその場所に機雷を沈置すれば彼らは触雷するのではないか)
と、イワノフは思った。いわば日本側がマカロフに対してやったのと同じ着想と作業をもって日本側へお返しをしてやろうというものであった。
イワノフは、その意見を、マカロフの死後後任司令艦長代理をつとめているウィトゲフト少将まで上申した。
「外洋に機雷を沈置するのか」
と、ウィトゲフトはこの案の奇抜さに驚いた。ふつう機雷というのは港湾付近に沈めておいて敵艦の侵入を防ぐものであったが、このイワノフ案は外洋に沈めるという機雷という防御兵器を、攻撃的に使おうというものであった。
ただ、外洋は広い。
「その点はどうだ」
とウィトゲフトは聞いた。イワノフはそれについてはすでに精密な調査をとげていて、
「いかに外洋は広くとも、東郷がやって来るコースはほぼ一定であり、その習性的な通過点をさらにしぼってゆけばさしたる広さではありません。機雷を五十個も沈めておけば必ず敵はワナにかかりましょう」
と言った。その沈める法は、日本艦隊の習性航路に対し、直角をなすようにして長さ一海里にわたり五十個の機雷を沈めるというものであった。
ただここに問題になるのは、国際法による公海のことであった。公法上の領海とは沿岸から三海里以内とされているが、この機雷沈置は沿岸から十海里以上もの外洋において行うのである。当然諸外国から抗議が来るであろうが、イワノフ中佐はそのことは黙っていた。それを言えば小心なウィトゲフトは保身的配慮をはたらかせてこの案を握りつぶすと思ったのである。
諸事、消極的なウィトゲフトは、この案をほとんど奇蹟的なほどの実行力を以って許可した。
イワノフ中佐は喜び、夜陰外洋まで忍び出ては、機雷を沈めて行き、数日で完了した。イワノフは研究心のさかんな人物で、最初は一直線上に機雷群を並べたが、あとではその直線を半円形に直したりした。
このイワノフの機雷群は、彼自身が予想した以上の戦果をあげることになった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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