旅順艦隊の旗艦がその司令官もろともに海没した、という確報があとでロイター電報によってわかったとき三笠の艦上では、 「どうでしょう」 と、幕僚の一人が東郷に進言した。 「無線電信をもって敵艦隊に弔電をおくりましょうか」 当然の提案であった。この時代はまだその種の騎士道的作法が残っていたし、日本海軍もげんに日清戦争のとき丁汝昌
に対してその種のことをやった。当然東郷が、 ── よかろう。 と、うなずくはずとたれもが期待したが、意外にも、 「やめよ」 と、東郷はただひとこと言った。東郷の拒絶が明快すぎたためにみな沈黙し、あとは言い出す者もなかった。 ただその拒否の理由についてたれもが知りたいと思ったが、この無口な提督にこの話題をかさねて持ち出そうとする者もいなかった。 戦後、これについて、のち東郷の伝記作者になった小笠原長生が、 「あれは、どういう理由でしたか」 と、聞くと、東郷は微笑して、 「その気が起こらなかったからじゃ」 と、言っただけであった。東郷はそういう男で、どういう場合でも自分の行為の理由づけをすることがなかった。 東郷に、この種の性行もしくは趣味
── 敵を愛するという ── がなかったかといえばそうではなく、日本海海戦が終わったあと、傷ついた敵将ロジェストウェンスキーを佐世保海軍病院に見舞っている。小笠原長生はそのこともあわせて話題にし、
「それではロジェストウェンスキーの場合はなぜあのように慰問なさったのでしょう」 と聞くと、東郷はもう一度微笑して、 「慰問してやりたくなったからよ」 と、答えた。それだけであった。 マカロフ戦死のときの東郷の心境は、おそらく複雑だったであろう。戦いはいまだ峠のふもとにさえ達しておらず、マカロフが死んだところで東郷が最初から負わされている絶対的苦境というのは解消するわけではなく、来るべき主決戦であるいは負けるかもしれない。マカロフの身は明日のわが身であるかも知れないのに、ここで趣味的な演技をするむなしさといやらしさを東郷は思ったに違いない。 ともあれ、マカロフとその旗艦は、日本側がその前夜に沈置した機雷のために海底に没した。 この轟沈の直後、 ──
犯人は潜航艇ではないか。 とう疑念が全軍の脳裡を占め、ロシア各艦は海面に向かってめちゃくちゃに大砲を撃ち放ちつつ隊列を乱して旅順へ逃げ込んだ。潜航艇はこの当時アメリカがすでに所有していたが、現実にはまだ未誕生の兵器とも言うべきこの存在について、ロシア側はあるいは日本が持ているかも知れないという疑念があったのである。
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