〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/02/12 (木) 

マ カ ロ フ (九)

マカロフが起き上がった時は、血みどろになっている自分を発見した。彼はすぐさま外套がいとう のボタンをはずし、脱ぎ捨て、さらに靴も脱いだ。この海に馴れた老将は、舷側から海へ飛び込むつもりであった。彼は重傷にも屈せず舷側へ出ようとした。しかし、甲板が胸突きの坂のようにかしいでしまっていて、うまく歩けない。
そこへ第二の爆発が起こった。彼はすでに逃れ難いことを知り、そのまま両膝をつき、最後の祈祷をする姿勢をとった。
戦艦ペトロパウロウスクが大爆発を起こしてから沈没するまで、わずか一分三十秒ほどでしかなかった。マカロフは艦とともに海底へ没した。このときマカロフと運命をともにした者は、六百三十余人であった。
「信じられない」
と、この光景を見て一様の叫んだのは、この水域のそばにある黄金山砲台の陸兵たちであった。マカロフは所属の違う陸兵たちにまで評判のいい男だった。
砲台の陸兵たちが見た光景というのは、戦闘を終えていわば静に帰港しようとしている旗艦ペトロパウロウスクと、大小十数隻のその艦隊であった。その旗艦が、ロシア側でルチン岩といっている岩礁のそばまで来たとき、突如大爆発を起こしたのである。
海水が壁のようにあが って艦を包み、やがて第二の爆発が起こり、艦体は青みがかった黄色の猛煙を噴きはじめ、すぐさま艦首が沈み、艦尾が高々と上がって、そのスクリューが非常な勢いで空中で回転した。と見る間に沈み、あとの海面には煙だけが残った・・・・。
黄金山砲台の陸兵たちが目撃した沈没の光景というのはそういうものであった。
彼ら陸兵はいっせいにひざまずき、脱帽し、右手の指三本をあわせて胸で十字を三度えがくというロシア風の祈祷をして、彼らが誇りにしていた世界的名将の最期さいご を弔った。
一方、日本艦隊のほうでも、この光景を遠望していた。
遠望として見たこの光景は、当然ながら不明瞭であった。ペトロパウロウスクとおぼしい一艦が急に黒煙に包まれ、轟音が水をひびかせつつ日本側にも伝わったが、しかしその次の瞬間には艦影がなかった。
「どうしたのか」
と、幕僚が他の幕僚に聞いた。たしかに後尾の巨艦が消滅した。しかしあまりとっさの光景のために、これは錯覚かも知れないと思い、自信がなかったのである。
幕僚の一人である真之は、双眼鏡というものを持っていない。この理由はのちに触れるが、彼はそのためにこの光景を見ていなかった。
「未確認なるも敵一艦沈没せるもののごとし」
といったふうの報告を大本営に向かって幕僚たちが発しようとしたとき、東郷が双眼鏡をおろし、
「沈没した。旗艦ペトロパウロウスクじゃ」
と、明瞭に言った。彼の高性能の双眼鏡だけがこの光景を確認出来たのである。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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