〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/02/11 (水) 

マ カ ロ フ (七)

マカロフは、この場合、勇敢でありすぎたと言えるかもしれない。
敵見ゆ、と聞いてちょうど闇雲に馬にとびのって駈けだすように、彼の旗艦ぺトロパウロウスクは、港内をすべり出した。彼に続く艦は、多くはない。すぐ出港し得たのは、例によってフォン・エッセン艦長のノーウィック (三等巡洋艦) である。つづいて戦艦セヴァストーポリ、二等巡洋艦アスコリド、二等巡洋艦ディアーナ、戦艦ポーベーダという雑多の編成だった。このほかに九隻の駆逐艦を従えていた。
これを、日本の第三戦隊の出羽司令官は遠望し、
「あれはマコロフではないか」
と、幕僚をかえりみた。
マカロフであるかどうかは将旗が見えるほどの距離ではなかったから幕僚はなんとも返事できなかったが、戦艦が三隻現われで出たことは確かだった。それに駆逐艦群のほか、二等、三等巡洋艦も数隻混じっている。ロシア側としては、いままでにない大きな兵力が洋上に出現した。
── 外洋に誘おう。
と、出羽は思ったが、誘うにはまず敵の砲火をすすんで浴びねばならない。
旗艦ぺトロパウロウスクの砲門が火を吐くと、他の艦もいっせいに砲煙をあげ、たちまち出羽の旗艦千歳のまわりに砲弾がつぎつぎ落下し、海面は沸くようなにぎやかさになった。出羽が率いる千歳以下の各艦も、かなわぬながらも、いっせいに砲門を開き、たちまち海上は敵味方の発射煙に包まれ、千歳などは駈けまわるうちに危うく吉野に衝突しそうになったりした。
日本側は、突っ込んでは退き、退いては突っ込み、複雑な運動をくりかえしつつ、敵を外洋に誘おうとした。
マカロフは、ついに外洋への突撃を覚悟したらしい。隊形を一変し、右先鋒単梯陣たんていじん をつくり、全艦隊が速力を増しつつ、出羽の艦隊に迫った。
(── 来る)
と、出羽は東郷の戦艦群が待っている一点へ変針し、マカロフをそれへ近づけようとした。マカロフはすすんで出羽の誘引に乗ったのは、味方の兵力の大きさをたの んでのことだったろう。さらにはなによりも自分の勇を恃んでいた。彼は大いに航走し、ついに十五海里の外洋にまで出たとき、東郷はそこに待ち受けていた。
旗艦三笠もいる。以下、朝日、富士、八島、敷島、初瀬とつづき、それに一昨日あらたにこの艦隊に加わった新造巡洋艦春日、日進を率いている。
── 出た。
と、マカロフはこのあたりが自分の勇気の停止点であると思った。彼はすぐ全艦隊に退却を命じ、旗艦は波をさわがせつつ回頭し、要塞砲の射程内にのがれようとした。他の艦も、旗艦に続いた。
やがて要塞砲の射程内に入ったが、マカロフはしかし入港はせず、まだ戦おうとした。
ときに海上には濛気もうき が去り、晴天が見えてきた。昨夜とは打って変わって視界がよく、敵も味方も互いの相手の艦とその運動を十分にとらえることが出来た。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
Next