〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Y』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(三)
 

2015/02/10 (火) 

マ カ ロ フ (五)

蛟竜丸は、低速運転しつつ、この危険な海域を静に旋回している。小田喜代蔵は甲板に立って沈置作業の指揮をしていた。雪が、彼の合羽かっぱ の肩に降り積もった。
(天のたすけだ)
と、小田は何度思ったか知れない。降雪が白いカーテンのように海面を隠している。ときおり闇を掃いて行く探照燈もこの隠密おんみつ 作業の船を捕らえないのである。小田は、機械水雷を沈めるのも、水音ひとつたてさせないようにやかましく言った。やがて作業が終わると、蛟竜丸はわずかに蒸気をあげ、盗賊が忍び足で出て行くように海域を離れ、沖へ去った。
護衛艦の群れは、現場からやや離れた所にいる。ただし、蛟竜丸を現場まで送った駆逐艦群ではなく、作業中の護衛は第二駆逐隊があたっていた。作業をする船も護衛をする艦も互いに無燈火でいるため、蛟竜丸が作業を終わったかどうかまるでわからない。そろそろ夜が明けようとするころ、
「もう終わったろう」
と、駆逐艦いかずち の艦橋でつぶやいたのは第二駆逐隊司令石田一郎中佐であった。駆逐艦は、動きだした。雷を先頭に、おぼろいなずまあけぼの という三四一トンの同型艦群である。
同型艦は、一つ行動すべしという海軍戦術の原則により、第二駆逐隊を構成していた。
この隊は、護衛が終わったあとは、その日常の仕事である港外パトロールをしなければならない。
黎明れいめい の海を航走するうち、東方に敵駆逐艦が一隻港へ近づいて行くのが見えた。敵もまたマカロフの命令で、駆逐艦が港外パトロールしているのである。この艦は、その帰りであろう。
あとで分かったことだが、このロシア駆逐艦は、
「ストラーシヌイ」
であった。 「雷」 級よりうんと小型で、二四〇トンしかない。速力も遅く、二六・五ノットにすぎず、雷の三一ノットに比べれば、その能力の低さが分かるであろう。
日本ではストラーシヌイほど足の遅い駆逐艦は一隻もない。
「彼は帰港しようとしている」
石田は、戦闘を決心した。
日本側の四隻は機敏に駈けて近づき、いっせいに砲火をあびせた。ストラーシヌイも勇敢に戦ったが、たちまち無数の命中弾を受け、全艦火に包まれた。わずか十分の戦闘で進退の自由を失い、沈没しかけた。
「救助」
と、石田は命令し、雷が先ずこの不幸なロシア駆逐艦に近づいた。
すでに、洋上は明るくなっている。ロシア駆逐艦はこのあと三十分後に沈むのだが、その前に驚くべき事態が起こった。
砲声を聞きつけて港内から、駆逐艦の苦手である巡洋艦が現れた。それも、勇敢を以って知られるウィーレン大佐が艦長の一等巡洋艦バヤーンである。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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